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概要
本名:エフゲニー・ヴィクトロヴィチ・プルシェンコ
(愛称:ジェーニャ)
高い技術力と表現力をあわせ持つソビエトシステムが生んだ最後の遺産。男子では唯一、旧、新の両システムでオリンピックのメダルを手にした選手である。
その卓越したスケート技術と、滑り出した途端に会場の空気を支配してしまうカリスマ性の高さから「皇帝」と称された。
精神的なプレッシャーのかかる大舞台で、4回転を高い確率で成功させることができるジャンパーであり、「4回転からの3連続コンビネーションジャンプ」を切り札として数々の試合を制した。
わずか7歳でトリプルジャンプを決め、数歳以上年長の選手たちを抑えて全国規模の大会で優勝するなど、幼い頃からその天才は発揮されていた。
その直後にソ連の体制が崩壊するという憂き目に会うが、名コーチ、アレクセイ・ミーシンにその才能を認められ、指導を受けることができた。そして、アレクセイ・ヤグディンなど並み居るエリートたちの中から、次第に頭角を現すようになる。
1996年世界ジュニア選手権では初出場、最年少ながら6位入賞。翌年は優勝を果たし、シニアに移ってからはライバルのヤグディンと火花を散らしつつ入賞し続け、2001年にはついに優勝をもぎ取った。また、2004年の国内大会で演じた「ニジンスキーに捧ぐ」は神がかり的な美しさで、芸術点オール6.0を叩き出し、フィギュアスケート史上に残る伝説の演技となっている。
ソルトレイクで銀を獲得。
2006年のトリノでは、居並ぶ選手たちがプレッシャーに負け、本来の実力を発揮できずに終わっていた。会場が異様な空気に包まれる中、故障を抱えていたプルシェンコもミスを出すが、そこで持ち前のメンタルの強さを発揮して金メダルを手にした。
2010年のバンクーバーでは、前年から引退を考えるほどの古傷の痛みに悩まされながらの出場となる。それでも数々のジャンプを完璧に決め、優勝と目されたものの僅差でライサチェクに破れ、銀メダルに終わった → ブリザード表彰台。惜しくも連覇はならなかったが、2014年のソチオリンピックでは地元ロシア代表団体を金メダルへと導くなど活躍(これがロシアが本大会で最初に獲得した金メダルとなった)した。しかし……
引退
「『エフゲニー、もうスケートは十分だよ』、そう神様が言っているように思う。」
一流のスケーターにはつきものの膝や足腰の故障だが、プルシェンコも膝半月や板椎間板の手術を繰り返していた。
ソチオリンピック、男子SPの練習中に「腰にナイフが刺さったような」激痛が走り、涙を呑んで棄権。策謀論大好きなマスコミからは、ロシアを優勝させるための計画的な棄権だったと叩かれた。
実際にはこのとき、人工椎間板を支える4本のボルトのうち、1本が折れており、脊髄損傷していた恐れもあった(これが後の検査で判明するとさすがのマスコミも沈黙した)。危うく半身不随になるところであり、事態を免れたのは本当に運が良かったとしか言いようがない。
痛みの激しさは人が服用する薬では効果が得られず、馬が服用する薬を飲んでいたほどだった。
その後「体調が最も大切だ。競技人生の終わりでいい演技をしたかった」と述べ、引退を表明した。……のだが数日後に引退撤回を示唆。
2015年にはメダルウィナーズオープンに出場し優勝するなど意気軒昂だったが、翌年にかけてのシーズンは背中を痛めて欠場。2017年2月に引退を発表した。
プルシェンコ校長
引退後もプルシェンコのスケートに対する愛は冷めることなく、後進育成のため本格的なスケート学校「エンジェルズ・オブ・プルシェンコ」を設立し、校長先生となった。同校ではプルシェンコが認めた生徒は無償で指導を受けることができる。なお、開校の発表直後から入学希望者が殺到した。
幼い子供たちに「トリプルアクセルをやるぞ」と無茶振りもするが、その分校長自ら懇切丁寧に指導を行う。遅刻した生徒にはリンクの上で腕立て伏せをさせるなど、躾の厳しい先生でもある。この点についてプルシェンコ校長は「試合に遅刻することなどできない。競技は遊びではないんだ。選手である以上は心構えをしっかりと持つべきだ」と語っている。
逸話
「フィギュアスケートはスポーツであり、オリンピックは芸術祭ではなくスポーツの大会だ」という信念を持っている。このため、バンクーバーでは演技のつなぎ部分が評価されず、またジャンプが不当に低い評価を受けたとして、採点に対し現在でも抗議の意を表している(優勝したライサチェクは4回転を跳んでいない)。
同大会での浅田真央選手の演技についても、同様の理由から彼女が優勝するべきだったと発言している。本人曰く、これが原因で韓国には一切呼ばれなくなったが「構いやしない」そうである。
- バンクーバーでプルシェンコが果たせなかったオリンピック連覇の夢は、後に彼を心の師匠として慕う羽生結弦により果たされた。
略歴
1997年 |
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1999年 |
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2001年 |
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ロシアの名匠アレクセイ・ミーシンに師事し、14歳で世界ジュニア優勝を果たす。これは史上最年少記録であり、2016年現在も破られていない。また、シニアデビュー1年目でGPファイナルに出場(ちなみに当時15歳になったばかり)し、同シーズンの世界選手権では初出場で銅メダルを獲得。15歳での表彰台入りはこちらも史上最年少記録である。
シニアに上がったばかりの若い選手が表彰台争いをするのは女子スケート選手の間ではたまに見られる現象である(女子は男子よりも体の発達が早いため)が、男子フィギュアの世界では異例である。フィギュアスケーターとしての彼がいかに早熟であったかがうかがい知れるというものであろう。
余談
しっとりしたクラシックや力強いオペラで、華麗なスケーティングを見せる一方、金パンツで腰振り、着ぐるみ、女装、おむつ、客席に乱入など根っからのいたずらっ子。皇帝のニックネームとは裏腹に、「世界一スケートの上手い芸人」の名を欲しいがままにしている。
2009年9月12日にモスクワで式を挙げており、嫁が美人である。
嫁とはラブラブで、運動神経抜群な嫁と夫婦でセッボンしたこともある。
等、数々の振る舞いから日本大好きだろうと噂されている。
関連イラスト
関連動画
2004年ロシア国内選手権『ニジンスキーに捧ぐ』(芸術点オール6.0の神演技)
2009年ロステレコム杯フリースケーティング
2001年世界選手権エキシビション(肉襦袢)
2004年世界選手権エキシビション(プルシェン子)
関連タグ
フィギュアスケート ブリザード表彰台 世界一スケートの上手い芸人 肉襦袢
宮田俊哉(Kis-My-Ft2)…あまりに顔が似すぎているため散々ネタにされる。こちらもこちらでオタク芸人。
杉谷拳士…(世界一上手いかはともかくとして)「芸人」の異名を欲しいがままにしていた元スポーツ選手(元プロ野球選手)。