マニ30
まにさんじゅう
登場前史
今でこそ日本各地に道路が整備され、トラック輸送が幅を利かせている時代だが、かつては現金の輸送も鉄道の役割だった。
戦前~戦後混乱期まで、鉄道における現金の輸送は極めて劣悪な環境であった。
輸送に使用される車両は、主に15トン積みの普通の有蓋車(いわゆる「ワム」車)であり、それに積荷である現金を積み込み、日銀の職員数名が貨車に「同乗」したのである。
照明や暖房、勿論トイレすら無く、さらに到着日時が不確定である貨物列車故に、下手をすれば片道7日以上もかかってようやく目的地に到着する有様だったという。また入れ替え作業、特に突放(機関車または下り勾配を使って貨車を転動させて、低速で他車に連結させること)の衝動は凄まじく、時に怪我人まで出したという。
現金輸送専用車、マニ34の登場
1945年の敗戦後の日本では、インフレによる紙幣需要の急増、さらに治安の悪化、何より目的地への到着すら日時が確定できない従来の貨車を利用した輸送方法が問題になる。
そのため1948年に日銀は、目的地への到着日時が明確な旅客列車に連結でき、警備や安全に利がある現金輸送専用の荷物車20両の製造をGHQに要請する。しかしながら当初は許可が下りず、紆余曲折の末ようやく6両の製造が認められた。これがマニ34である。
許可が下りた背景には、当時摘発された窃盗団が、現金輸送中の貨車を襲撃する計画を練っていた事例があったためとも言われる。
輸送する物がモノだけにその構造は極めて特殊である。しかしながら一見して特殊な外観ではかえって意図的な襲撃を招きかねないため、一種のカモフラージュとして当時製造が進んでいたオハ35の戦後型を、荷物車としてアレンジしたような姿になっている。そのため本来であれば荷物室に窓を設けない方が警備上は望ましいが、あえて窓を設けてあり、現金輸送時には裏から鉄板で蓋をする構造が採用された。
車内のレイアウトは車体中央部に、長時間乗務に備えて3段式の寝台とコンロ台を装備した警備室を設置、その両側に荷物室が配置され、さらに片側(後ろ側)の車両端部には荷物室とは完全に分離された車掌室が設置されている。
これら6両は国鉄に車籍を有していたが、所有者は日本銀行であり、私有貨車と同じ扱いがなされていた。
マニ34は1949年に製造された後、製造時に備わっていた寝台・コンロ台の撤去とリクライニングシートのへの変更、電気暖房の設置とそれに伴う改番(1~6→2001~2006)、荷物室の強化改造(外観も大きく変化した)、警備室用の冷房の設置(任務上夏季でも窓を開けられないため)などの改造が重ねられ、後述の後継車が登場する1979年まで使用された。
その間の1970年には形式がマニ30に改められている。(以後、同車を便宜上初代とする)
背景として1968年に発生した三億円事件による影響も否めず、同時に「マニ34=現金輸送車である」と外部の者に知られるようになってきたため、警備・隠避のため型式変更によるカモフラージュを行ったとも言われる。その頃から国鉄は同車の存在自体を隠避するようになる。
二代目マニ30の登場
戦後~高度経済成長期を支えた初代マニ30であるが、製造後約30年が経過して老朽化が進行したこと、また度重なる装備の改造で、荷重が当初の14トンから11トンにまで減少していたことも問題になった。
そのため1978年から1979年にかけて、初代の置き換え用として二代目マニ30が6両新造された。なお車体構造も外見も完全に別物であるが、存在すら隠避されている私有車故か形式は初代を引き継ぎ、番号も初代からの続番(2007~2012)になっている(こちらを便宜上二代目とする)。
外観は一見すると当時量産が進んでいたマニ50に類似しているが、実は全長が21.3mと12系・14系客車並みに長く、また荷室には扉も含めて一切窓が無い。車内の大まかなレイアウトは先代を継承したため、車両中央部の窓と扉がある部分が警備室である。
また、車体が日本国内で運用される「客車」としてはかなり珍しく、アルミ合金製となっているのが特徴である(荷重14トンを確保するための軽量化が目的と思われ、この件も当然ながら運用終了までは非公開であった)。
警備室に冷蔵庫や流し台、電子レンジも設置されるなど、時代の趨勢に応じた設計になっている。
現金を運ぶ時は「容箱」というプラスチック製のケースに入れられて運ばれた。容箱を積むための扉に付いている鍵は内側からしか開けられない。さらに警備室・荷物室間の扉も鎖錠され、それらの鍵は荷役終了後に本店・支店が回収するため、走行中は荷物室への侵入は出来ない。
警備員(日銀職員・鉄道公安職員→各県警の警察官)の長時間乗務(この乗務は「勤務」ではなく「任務」の性格のものである)に対応できるように快適性も高く、クーラー、A寝台相当の寝台設備とグリーン車レベルの座席、簡単な調理ができる台所が設けられていた。
警備室の窓ガラスは防弾ガラス製だとも言われる。
前述のように後部に車掌室はあるが、荷物室とは完全に分断されており、車掌が荷物室に入ることはまず無かった。その逆側は車端部まで荷室が占めているため、貫通扉や窓などの類は一切無く、後部標識灯のみが付けられている。
そのため、推進運転のある上野駅~尾久を経由するルートについては、前方を監視するために車掌室が編成の端部になるよう車両の向きに注意が払われた。
この車両の任務上そのダイヤが公開されることは無く、事前の通達も局報に載せず、運行上必要な現場に限って電報で通知される程度であった。
なお、マニ34→マニ30(初代)は4両が品川客車区、2両が尾久客車区に配置、マニ30(二代目)は1両が宮原客車区、3両が品川客車区、2両が尾久客車区であった。
マニ34の登場後は、長距離の急行列車に連結されることが多かったが、1970年代に入りそれらの列車が削減されるようになると、代わって郵便・荷物専用列車に連結されることが多くなった。その郵便・荷物列車も1986年に全廃されたため、最終的に高速貨物列車に連結されるようになった。そのため民営化後の車籍はJR貨物である。
JR化後の配置は梅田・東京貨物(タ)・隅田川と変わったが、廃止まで両数は不変であった。
2003年に現金の鉄道輸送が廃止され、全車が廃車された。
ラストナンバーの2012は解体を免れ、北海道小樽市の小樽市総合博物館に保存されている。
車内に立ち入ることも可能で、その特殊な構造を見ることができる。
- 現役時代「マニ30を撮影すると金運が逃げる」とか「フィルムを警官に没収される」とかいろいろな噂が流れ、鉄道雑誌にその存在が載ることも少なかった。というより、初代が一度だけ記事になっただけであり、市販の車両配置表への掲載も1980年が最後になった。(国鉄→JRの所有ではなく日銀所有の私有車だったことも理由)以後は2003年の鉄道による現金輸送が廃止されるまで、存在しないかの様に扱われていた。詳細はとにかく、存在自体はよく知られている皇室用車両以上に触れることがタブーだったのである。
- ただし、鉄道趣味誌の荷物列車に関連した記事などで形式名が記されたり、写真にチラッと写りこんだりしていたことはある。
- かつて鉄道模型誌で二代目マニ30の模型製作記事を掲載したところ、その雑誌の読者に日銀の関係者がおり、編集長が日銀から呼び出され、事情聴取を食らったというエピソードすら存在する。(その模型を製作するために制服姿の国鉄職員が実車の採寸を始めたところ、即刻鉄道公安官に止められた話まである)この一件の後、各趣味誌はこの車の扱いについてさらにナーバスになったという。
- 現金輸送の際、特に警備が厳しかったのは新札の輸送ではなく、使用済みの古い紙幣を回収する時だったという。←理由は・・お察しください。
- 現金を積み降ろす際、荷物扉周辺を天幕で覆い、鉄道公安官や警察官を配置して万全の体制で警備していた。近づこうものなら問答無用で追い返されたらしい。
- 初代、二代目とも営業最高速度は95km/hで、100km/h・110km/h運転が行われた高速化改造済の20系客車や14系・24系、或いは10000系貨車、コキ100系で組成された高速貨物列車Aには連結できず、またそのための改造も行われなかった。これが運用の幅を狭めたため廃車の一因となったと考える人も。