概要
シヴァ神の相の一つ「マハーカーラ」は三面六臂の姿で描写される事が多かった。
これが三面大黒天である。原型に近い憤怒相のマハーカーラは、青黒い肌の鬼神のような姿であり、
シヴァが象型の悪魔(ガジャースラ)を倒しその革を被ったエピソードに由来するのか、
仏教の天部像でも、象の革を上部の一対の腕で被るものも見られ、『大日経』を基にした胎蔵界曼荼羅でもこの姿で描写される。
忿怒相の大黒天は「七母女天」という眷属を持つが、日本で成立した経典『大黒天経』では優婆塞(在家信者)の姿の大黒天も彼女らを眷属とするとある。
摩多利神もまた、象革を被った三面六臂の鬼神という姿を持つ。「摩怛利神法」という修法では摩多利神は摩多羅神と同一視される。
『渓嵐拾葉集』によると摩多羅神は摩訶迦羅天であるとも語られている。
日本の三面大黒天
三面大黒天は仏教と共に日本に渡り、独自の進化を遂げた。
大黒天部分は大国主と習合した穏やかな福の神型とするパターンと、引き締まった武人型とがある。
財神である三神が合わさった尊格であり、多大な現世利益があるとされる。
農民出身の秀吉に天下をとらせた、という意味で日本独自の三面大黒天は「三面出世大黒天」とも呼ばれる。
天台宗だけでなく、真言宗、禅宗、日蓮宗、浄土宗にも三面大黒天を祀る寺院がある。
伝承
日本天台宗の開祖最澄が比叡山に延暦寺を設け、そこに根本中堂を建てようとした時、山中にて仙人が現れ、『法華経』の一節を読んで見せた。
「普利衆生、皆令離苦、得安穏世間之楽及涅槃楽」(黒字部分が第五章「薬草喩品」からの引用)。
釈迦如来が、衆生を苦から解き放ち、安穏と、世間と涅槃における楽を与えると語った箇所である。
これを聞いた最澄は仙人に寺で修行する僧侶たちの食と健康を守るために経済的に守護してくださいとお願いする。
彼はそれに応え、毎日三千人分の食事を用意し、自身を拝む者には福徳と長寿を与えると答えた。
この後、最澄はこの仙人の正体を三面大黒天と見なし、自らその像を刻んで安置したという。
このエピソードは三面大黒天のみならず日本における大黒信仰の発祥ともされる。
江戸時代に書かれた講談的な一代記『真書太閤記』によると木下藤吉郎という名であったころの秀吉はある日、三面大黒天の土製の像に目をとめた。
藤吉郎は石の上に像を置き、自身を三千人を統べる者となさしめ、富貴を得させるのなら壊れるように、そうでないなら壊れないように、と念じつつ大鎌鎚を叩きつけると、象は粉微塵となった。
藤吉郎は大いに笑い、砕けた様子を見て(恐らく砂粒の数か砕けた大きさが)日本六十余州の人口よりもなお多い、と語り吉事として喜んだという。
なお、これを見た菊という別の登場人物はこの反応に呆れている。
伝承における藤吉郎の三面大黒天像の破壊方法としては投げつける、というパターンもある。大黒天像の破壊から30年後、秀吉は天下をとった。
彼は三面大黒天を深く信仰したといい、京都の圓徳院には彼が念持仏(個人用の小型の仏像)として用いたという三面大黒天像が伝わっている。
東寺や英信寺の像は空海の作と伝わる。
江戸中期の随筆集『鋸屑譚(おがくずばなし)』では毎月、大黒天の祭日である「甲子の日」に生の黒豆を粒をもって三面大黒天を祀るように、と日蓮が語ったという話が記されている。
持物
比叡山に祀られる、最澄が最初に作像した形式と伝わる三面大黒天像の持ち物は鎌、宝鍵、如意宝珠、宝剣、如意棒、槍である。
つまり、大黒天の代表的な持物である袋と小槌が含まれていない。
圓徳院に秀吉の念持仏として伝わる三面大黒天像のように、二本腕で持物は袋と小槌というパターンもある。
三面(出世)大黒天を像として造形した場合の持ち物のパターンは様々だが、習合した三人の神の持物から採用されるという点は一貫している。
他の代表的な作像例と持物は以下の通り。持物は向かって右から順に記載。
- 英信寺(浄土宗、東京都台東区):宝鍵、如意宝珠、袋、小槌、如意棒、槍
- 金剛院(真言宗豊山派、東京都豊島区):不明、宝鍵、袋、利剣、如意棒、槍
- 焼山寺(高野山真言宗、徳島県):鎌、如意宝珠、袋、小槌、利剣、宝鍵
- 善光寺(無宗派、長野県):利剣、如意宝珠、袋、なし(握り拳)、如意棒、槍
- 本行寺(日蓮宗、大阪府):琵琶、不明、袋、小槌、如意宝珠、稲束
- 興聖寺(曹洞宗、京都府):二本腕に袋、小槌
- 四天王寺(和宗、大阪府):経巻、袋、如意宝珠、利剣、法輪、小槌
類例
似た尊格として「三神具足大黒天」が存在する。顔は一つで腕は二本。弁財天の髪と毘沙門天の鎧を備え、手には小槌と袋を持つ大黒天である。
日蓮宗の古刹「大法寺」に伝わる伝承によると、この大黒天の像も最澄が作ったものであり、後の時代に寺の僧侶、日瞬が
法華経を三万回読み上げた功徳によって信徒である長左衛門の夢に現れ、自分の家の蔵にその像があることを見つけ、寺に納めたのだという。
こちらも像の元々の作者は最澄とされている。