概要
清和源氏井上氏または諏訪神党諏訪氏の庶流で信濃国高井郡保科(長野県長野市)を拠点とした。
平安時代末期の源平合戦では井上氏の手勢として参加。中先代の乱では南朝に属し北信濃の北朝軍と戦った。
戦国時代に南信濃の高遠城主・諏訪氏の家老として保科氏の名が出てくるが、具体的にいつ頃南信濃へ移り住んだかは不明。1552(天文21)年に甲斐の武田晴信によって諏訪氏が滅ぼされると、当時の当主・正俊は武田氏に仕えた。
1582(天正10)年の甲州征伐によって武田氏が滅亡すると正俊は徳川家康に仕え、正俊の子・正直は家康の関東入国後に下総多胡(千葉県多胡町)1万石を得た。跡を継いだ正直の子正光は関ヶ原の戦いに参加し、戦後旧領であった信濃高遠2万5千石を与えられた。後に2代将軍秀忠の庶子・正之を養子に迎え、陸奥山形(山形県山形市)20万石を経て、会津23万石を与えられ松平の苗字も与えられた。
一方保科氏の血筋は、正光の弟・正貞が継ぎ、上総飯野(千葉県富津市)1万7千石(のち2万石)を与えられた。
明治維新時、会津家は戊辰戦争によっていったん改易の上陸奥斗南3万石へ減封され、華族令によって両家とも子爵に叙された。