概要
分かり易く言うならば、あらゆる物事に関し、「良い」か「悪い」かの単純化で区別しようとする理論である。元々はゾロアスター教の教義である「善神」と「悪神」から始まったとされる概念であったが、後にユダヤ教、キリスト教等数々の宗教に受け継がれるようになる。その後も、時が経つにつれ、宗教のみならず、政治、社会、マスコミ、メディア、軍隊、そして戦争等においても、善悪に関する二元論の概念が積極的に取り入れられる様になり、現在にまで至っている。
善悪二元論から派生的した概念や心理現象として、善が悪に勝利する事を真理とした「勧善懲悪」、敗者こそが善で勝者こそが悪である事をある種の美徳としている「判官贔屓」等がある。
本来、物事や人間というものは、「善」か「悪」かの両極端だけでは割り切れない曖昧さや複雑さを伴う事が数多く存在しているのが当たり前(例:助かる見込みの無い末期患者へ行う安楽死、極めて危機的状況において他人を犠牲にして助かる緊急避難等)で、実社会でまともな生活を送っていれば、誰もが自ずとそれを理解し気付く事になる筈だが、頑として認めない者も少なからず存在している。そういった者は、善か悪かの単純化を好み、複雑性や多様性を嫌うあまり、「善と悪のどちらでもない」といった中庸的な「第三の選択肢」を頑として認めない節がある(ただし、そういう「第三の選択肢」を選ぼうとする人間の方が、現実的には比較的多い)。
そして、更にそれが極端なまでに先鋭化していった結果、両極端のどちらかを支持する者の間で意図的な煽り合い等が生じたり、人格否定や差別的言動、感情に任せた罵詈雑言にまで発展してしまうといった事もあり、社会問題にまで発展している。また、片方が大多数でもう片方が少数の場合だと数の暴力にまで発展してしまう可能性もある。
歴史上の人物等に関しても、講談や歌舞伎、歴史小説などのわかりやすい創作物の影響から、かつてはアマチュア的な戦国ファンからは善悪二元論等に基づいた単純化した評価が好まれており、英雄的活躍やカッコ良さばかりが注目されている源義経、真田幸村、石田三成、直江兼続、明智光秀、浅井長政、武田信玄、上杉謙信等が「善」の枠組みに組み込まれているのに対し、裏切りや蛮行、地味さが強調されている源頼朝、織田信長、徳川家康、松永久秀、宇喜多直家、小早川秀秋等は、歴史背景や事情を考慮される事も無く「悪」の枠組みへ押し込められてしまっていたこともあった。
近年では、硬直化した善悪二元論的な物語への反動・カウンターもあり、大河ドラマ等では最新の研究結果を取り入れたりすることで、敢えてそれまでの人物評を覆すような作品も作られるようになっている。
また、基本的に善悪の二言論を好む者は、自分が推進する側と真逆の側に対し、頑として否定を前提とした態度しか取らないことが多く、様々な争いの火種となりやすい。