概要
日本の明治から昭和における剣豪(武術家・剣術家)であり、鹿島神流(鹿島古流とも)剣術の第18代宗家の継承者でもある。『昭和の宮本武蔵』『今武蔵』の異名を持つ。
終戦後にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の申し出により、アメリカ海兵隊員の銃剣使いと試合をして、見事に勝利したことでも有名である。
人物・経歴
本名は道之。明治27年(1894年)1月20日に福島県いわき市常磐関船町宿内で生まれる。
幼い頃から16代目の祖父・新作と、17代目の父・英三から鹿島神流を教わり、更に19歳の時に父の命で外に出て新陰流剣術を佐々木正之進に、馬庭念流剣術と妙道流柔術を栖原邦泰に師事して学んだ。
徴兵により第一次世界大戦にも陸軍兵士として従軍しており、その武術の腕が軍内でも評判となって陸軍戸山学校の教官に任命され、現代における居合道の母体となった夢想神伝流の創始者である中山博道らと共に古流武術を組み直し、日本陸軍で制定された軍刀を使う戦技である戸山流の片手軍刀術を開発した(後に両手軍刀術も開発された)。こうした成果を上げたことにより、戸山学校の校庭には国井本人の銅像が建てられた。
退役後は東京都北区の滝野川に道場を開いて『道場破り歓迎』という看板を掲げ、剣術だけでなく他の武器術や柔道・空手などの徒手空拳の使い手からも、相手の望む条件で幾多の他流試合を受けた。
このため武道界からは異端視されていたが、国井はまるで戦う前から勝負が決まっているかの如く一本を取るのが常で、どんな相手でも勝ち続けて生涯不敗であり、日本古武道の強さを体現した武人だったという。
米海兵隊員との勝負
戦後において、剣道の復活に奔走していた当時の国務大臣であり剣術家でもあった笹森順造に対し、GHQはある申し出をしてきた。
それはアメリカ軍の海兵隊最強の銃剣術の使い手と、日本の剣術家で勝負をするというものであった。
しかし、相手の米海兵隊員は本物の銃剣を使用しているのに対し、日本側は稽古用の袋竹刀(木刀だったとも言われる)で挑むという不利な条件付きであり、日本の侍を米軍兵士が殺害することで、日本武道の威信を貶める目的があったのではないかと言われている。
こうした日本武道の誇りと名誉が賭けられた一戦であり、更に米海兵隊は徒手格闘術も訓練されているため、武器を持たなくとも強くかつ実戦経験があることが求められ、そこで白羽の矢が立ったのが国井であり、彼はこの笹森からの依頼を二つ返事で引き受けた。
そうして試合が始まると、米海兵隊員はまず銃剣を突き刺して、その流れで銃底を横に払い国井の側頭部を潰そうとした。しかし国井は突きを躱し、銃底の横払いも避けて海兵隊員の首根っこを押さえて捻じ伏せた。勝負は一瞬だったという。
アメリカ軍の兵士たちは、日本武道の凄さと素晴らしさに驚嘆していたという。