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壁村耐三

かべむらたいぞう

秋田書店に勤務した漫画編集者(1934年2月21日~1998年12月8日)。漫画雑誌『週刊少年チャンピオン』の編集長として黄金時代を築いた。
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略歴編集

岡山県出身の漫画編集者。秋田書店の『週刊少年チャンピオン』を1970年代に少年漫画誌の部数トップに導いた名物編集長として知られ、下記のエピソードから豪快かつ凄みのある無茶苦茶な人物としても知られている。


1972年から1981年にかけての最初の『週刊少年チャンピオン』編集長時代には「ドカベン」、「マカロニほうれん荘」、「750ライダー」、「がきデカ」、「ブラック・ジャック」といったヒット作が生まれた。


体調を崩し辞任したが退任後から大幅に部数が落ちたため、1985年から1989年にかけて役員兼任の形で再度編集長を務めた。


晩年は膵臓を患って痩せ細り、表情も柔和になっていた。

1998年12月8日、64歳で死去。


編集長時代の部下には伊藤嘉彦(幻冬舎コミックス元社長)、沢考史(『週刊少年チャンピオン』9代目編集長)、奥村勝彦(『コミックビーム』元編集総長)らがいる。


人物編集

肩で風を切って歩き、やたら唾を吐くなど、見た目はヤクザそのものだった。晩年はやや穏やかになったものの、部下が下手を打つと殴る蹴るは当たり前で、漫画家を怒鳴りつける事も多かった。


少年時代より素行不良ヤクザの盃も受けており、エンコ詰めで左手小指が欠損していた。将来を心配した壁村の両親が同郷だった秋田貞夫社長に相談し、1958年、日本大学卒業後秋田書店に入社。入社まで漫画を読んだことはなかったが、思い入れがない分、漫画はこうあるべきだと決めつけず、それがかえってよかったとインタビューで語っている。


編集会議で多数派ではなく少数意見を採用し、漫画雑誌の常識を次々と覆した。しかし内容について口出しする事は少なく、漫画家の自由に描かせていた。


情に篤く、敗者に再度チャンスを与えようとするところがあり、落ち目の手塚治虫に「死に水をとる」と称して連載させたり(その連載が「ブラックジャック」であり、見事に手塚は復活)、逮捕後の梶原一騎を使おうとしたりした(梶原には「ゴッドハンド」絡みで呼びつけられ恫喝された過去があった)。



エピソード編集

  • まんが王』の編集者時代、原稿のあまりの遅さに腹を立てて手塚治虫を殴り、「漫画の神様・手塚治虫を殴った男」として語り継がれているが、翌日謝りに行った。
  • 冒険王』の編集長時代、デビュー間もない永井豪に秋田書店での執筆を要請し、勝手にアシスタント蛭田充)を連れてきて『まんが王』で『馬子っこきん太』を連載させた。
  • どおくまんは好きなだけ続けて良いという約束で『月刊少年チャンピオン』で『暴力大将』を連載するが、第二回を掲載後に電話すると「バカヤローッ!」「なんだこのマンガは!」「こんな面白くないもの描いて、どういうつもりや!」と怒鳴り付けられ、展開を早くすることにした。
  • 藤子不二雄Aの『愛知りそめし頃に』には「壁岩」として登場し、刃物をもったチンピラをぶちのめしている。
  • 壁村から穴埋め原稿を依頼され赤塚不二夫は『ナマちゃん』を描いたが、刷り上がった『まんが王』を見ると「連載作品」と書かれていて仰天する。これをきっかけにギャグ漫画家として活躍することになる。
  • これまで吉本浩二の『ブラック・ジャック創作秘話 ~手塚治虫の仕事場から~』など壁村を描いた漫画はあるが、特に永井豪の『激マン!』で描かれた絵が本人に最も似ている。
  • 息子の壁村大輔によると家庭では大人しかったが、仕事の電話では「逃げずに待ってろ!」などと怒鳴っていたという。



関連タグ編集

編集長 秋田書店 まんが王 冒険王 週刊少年チャンピオン 月刊少年チャンピオン

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