注:メイン画像は飽くまでイメージに過ぎない(画像の緑髪のキャラクターは本来、槇島昭光本人とは無関係(ただし、その一方で同画像の隅に描かれている金髪の少年キャラクターは足利義昭本人)。)ので悪しからず。
生涯
一色氏の一族である一色信濃守輝元(輝光)の子であり、輝元が山城国の槇島城を与えられて槇島を姓とする。幕府に奉公衆の一員として仕えた。ただし、槇島氏に関しては第9代将軍・足利義尚の奉公衆として「真木嶋六郎藤原光通」の名前があり、輝元父子がその末裔あるいは同家の養子であった可能性もある。
昭光の名前が幕臣として登場するのは義昭の時代に入ってからである。
織田信長と対立した室町幕府将軍・足利義昭を迎え、反信長の兵を挙げた義昭に従って織田氏と戦うが、羽柴秀吉の軍に対し開城(槇島城の戦い)。その後、義昭は信長に京都を追われ流浪するが、昭光は義昭に従い河内国の三好義継や中国地方の毛利輝元らの元へと随行した。同じく幕臣であった一色藤長が中国地方への下向に加わらず義昭の下を去った後は義昭の側近の筆頭となる。義昭が毛利氏の庇護の下、備後鞆の浦において御所を構え将軍としての活動(鞆公方)を再開し、京都復帰のため反信長同盟(信長包囲網)の再構築を目論むと、将軍側近の筆頭として一色昭秀や上野秀政らとともに使者や御内書の添状の作成などに携わった。
信長が死去し豊臣秀吉が台頭した後も義昭の近臣として仕え、足利幕府再興のために薩摩国の島津氏への援助要請を行ったり、豊臣秀吉と誼を通じた上での義昭の京都への帰還の実現にも関わった。また、毛利輝元が豊臣政権への帰服のため上京し義昭と再会した際には奏者としての任務を果たした。義昭が死去すると、西笑承兌と共に秀吉の命を受けて葬儀を担当した。
その後、豊臣氏に2,000石で仕えて奏者番を務めた。秀吉の死後は豊臣秀頼に引き続き仕え、大坂の陣でも豊臣方に属し、慶長19年(1614年)10月には堺に出陣している。合戦を生き残り、京都で出家して云庵と名乗る。後に細川忠興や加藤嘉明らの嘆願により助命された。以降は細川氏に仕え、1,000石を給されて元和9年(1623年)から中津城の留守居役を勤めた。正保3年(1646年)1月20日に百十余歳といった長寿を全うし死去。
人物像
昭光は秀吉の死後、子の秀頼に仕え、豊臣家の滅亡の際にも秀頼の側にいた。義に篤く、家康も一目置いたが、やがて煙たがられ、共に足利家に仕えその人望を見抜いていた家臣の細川藤孝が「得がたい人物、ゆめ粗略に扱うな」と子の細川忠興に命じ、忠興らのとりなしで晩年は中津で過ごしたとされる。
表記揺れ
関連タグ
歴代の主君
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細川氏
かつての盟友
結果的ながらも共に最後まで豊臣政権を支え続けた忠臣仲間達
歴代の仇敵
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実は・・・
NHK大河ドラマ作品『軍師官兵衛』にチョイ役で登場している(演:小久保丈二)。
他にも彼を主人公とした歴史小説『槇島昭光』も出版されている。