概要
「謎を解く興味」を強く意識して書かれ、実際に連載中「犯人あて誌上懸賞企画」まで行われた(結局は色々あってグダグダ気味に終わったのだが)、戦時中圧迫停滞期から解放された後の作者横溝正史による「本格探偵小説路線」の嚆矢となった名作のひとつ。
横溝戦前作品におけるメイン探偵役、由利先生&三津木俊助コンビが活躍する作品。だが同時期に登場した金田一耕助が人気を得、この二人組はその後表舞台からは退いてしまうことになった。
あらすじ
有名ソプラノ歌手原さくらが主宰する歌劇団は『蝶々夫人』東京公演を終え、次の公演地大阪へ列車で移動するが、さくらと弟子の相良千恵子は別行動をとった。ところが現地へ前乗りした筈のさくらは、何故かそのまま姿を消してしまう。
後発の劇団員達も到着し公演会場入りするが、今度は別便で送った筈の楽器の中からコントラバスが届かない。ケースだけが発見され、中にはバラの花に覆われたさくらの絞殺死体が収められていた。
千恵子の話によると、さくらは東京駅で謎の楽譜を読んで突然予定を変え、品川駅で下車し引き返したという。その楽譜は暗号文だった。大阪で彼女に扮してホテルにチェックインしたのは千恵子で、これもさくらの指示によるものだった。
これに先立ち、若手流行歌手の藤本章二がこれまた謎楽譜を握りしめたまま殺されるという事件が起きており、さくらの死とこの事件は何か関係があるかと思われた。さくらの夫で歌劇団後援者の聡一郎から要請を受け、名探偵由利先生と新日報社の記者三津木は大阪へと急行する。
大阪福島のアパート部屋が捜索され、ここでさくらは殺され楽器ケースに入れられて運び出された状況がまず考えられた。ところがその後の調べで、犯行現場だと思われたこの部屋は殺害場所を偽装するためのトリックに使われた可能性が浮上。
東京へと戻った由利&三津木は愛宕下のアパートを発見、そこが真の殺害現場ではないかと推察する。この愛宕下アパートはさくらが本名で借りていたもので、彼女はここを隠れ蓑にして人知れず何らかの秘密を抱えていたようだ。そして、それがどうやら今回の事件の真相を解く重要な鍵に‥‥。
さて、この複雑な東京-大阪間の死体移動トリックを解き明かし、由利&三津木の名コンビは真犯人をつきとめることができるのだろうか‥‥‥‥?
主要登場人物
由利麟太郎
三津木俊助
原さくら
第一の被害者。原さくら歌劇団の主宰者で「世界的」「国宝的」なソプラノ歌手。47歳。本名は原(旧姓江口)清子。この人物のいかにも芸術家らしい、と言えば聞こえがいい謎に満ちた厄介な性格が、ただでさえ複雑難解な事件をよりややこしくさせてしまう結果に‥‥。
相良千恵子
さくらの弟子のアルト歌手。日本女性にしては背が高く、普段は「美人ではないが親しみやすい」タイプだが、歌劇団の男役でもあり男装すると「なんともいえぬほど魅惑的」。若いだけに師のさくらよりもファン人気が高い。彼女にも何やらいろいろ秘密があるようで‥‥。
原聡一郎
さくらの夫で資産家御曹司、そして歌劇団の後援者。由利先生にこの事件解決を依頼した人物。他の誰も知らなかった妻の隠された秘密を問題編の最後でぶっちゃける。
小野龍彦
テナー歌手。天下一の美男とうたわれる人気者だが、老舗呉服店の次男坊で生まれつきのお坊っちゃん。マネージャーの土屋曰く「さくらがちかごろこの男に‥‥おっとこれは内緒内緒」とのことだが‥‥。
志賀笛人(てきじん)
バリトン歌手。先に殺された歌手藤本の師。この男もさくらと過去に何かがあったようで‥‥。
牧野謙三
歌劇団の指揮者。この人物もさくらと因縁が‥‥。
川田
土屋恭三
さくらのマネージャー。50歳。かつては浅草オペラのバス歌手。今回の事件に関する詳細な日記を書いており、この作品の記述者を兼ねる。
雨宮順平
土屋のアシスタントマネ。年齢26~7、小柄でそそっかしく頼りないドジ。実はこの男‥‥。
藤本章二
先だって殺された流行歌手。志賀笛人の元弟子。
浅原警部
今回の捜査に当たる大阪府警の警部。
等々力警部
警視庁警部。
執筆にまつわる裏事情
雑誌〈ロック〉は戦後創刊されたばかりの新雑誌で、当初は小栗虫太郎の新作長編を目玉連載する予定だったが、46年2月にその小栗が急死し、急遽ピンチヒッターとして依頼されたのが横溝だった(この時〈ロック〉へ最初小栗を世話したのも、その代打役に横溝を推したのも作家仲間の海野十三。海野は横溝が探偵小説雑誌編集長時代に発掘した人物だった)。
しかし横溝はこの時別雑誌〈宝石〉にて『本陣殺人事件』の連載が決まっており、一旦は断ろうと思ったが、小栗にはかつて自分が結核で倒れて依頼作品が書けなくなった時にその穴を埋めてくれた(これが小栗の商業誌デビュー作『完全犯罪』)恩があり、「いささかおセンチ野郎の私の心をうごかし」「弔い合戦にもと」この話を引き受け、本格長編作品二誌並行連載執筆という難題に取り組んだ。
横溝は当時疎開先の岡山県在住だったが、そこへ復員してきた音楽学校生の若者から「江戸川乱歩の小説に死体をピアノの中に隠すのがある(『一寸法師』)が、ピアノの中に絶対人は隠せない。コントラバスのケースなら入れる」という話を聞いており、それ以外にも音楽分野に関する幾つかの疑問教示を受けた。
そしてこの時横溝がよく読み返していたイギリスの名作ミステリ小説F・W・クロフツの『樽』に倣ってこれらのアイディアを生かした殺人死体の移動トリックを考え、この『蝶々殺人事件』を書いたのだった。
余談
作者自身は後に「(『本陣』と『蝶々』の同時連載時)乱歩ら探偵作家の間では『本陣』の方が好評だったが、坂口安吾ら純文学畑の人達は『蝶々』を支持してくれた」と振り返っている。
その坂口は推理小説に関するエッセイ(『推理小説について』と『推理小説論』)でこの作品に言及しており、現在は青空文庫で自由閲覧が可能だが、そこではメイントリック等の核心部分がおもいっきりバラされて書かれている(作品評論文なのである意味仕方ないとは言え)。歴史的名作ミステリの宿命なのかこうしたネタバレ行為は他所でも様々見受けられるので、この『蝶々』をまだ未読の方はその点をくれぐれも留意されたし。