プロフィール
※ このプロフィールは本百科の推測であり公式によるものではないため注意。
概要
終盤に沖田総司の最終宝具「誠の旗」にて召喚されたサーヴァント。
同時に召喚された仲間の新選組隊士と協力し、織田信長に勝利を収めた。
また、新選組の局長と言う立場から、登場済みの隊士から何かと言及されることがある。
沖田によれば新撰組の羽織をデザインしたのは彼だがセンスは無かったとのこと。
真名
幕末の京都を中心に活動した治安組織・新選組の局長、「近藤勇」。
また、古流剣術・天然理心流の四代目伝承者にして、試衛館道場主でもある。
元々彼は武士ではなく、武蔵国多摩郡の百姓の出身で、本名は宮川勝五郎(後に副長となる土方歳三とはこの当時からの幼馴染)。幼少期から武家の世界に憧れを持ち、武士を目指すべく、天然理心流道場に入門(この際、当時天然理心流宗家・三代目だった近藤周斎の実家である嶋崎家の養子となり、嶋崎勝太と名乗る)。そして、沖田総司や井上源三郎と知り合いその後、周斎の養子となり近藤勇と名乗り、宗家四代目を受け継ぐ。その後、つねと結婚し長女・たまを授かる。更に山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助、斎藤一など新選組の大幹部となる猛者たちが集まる。
文久三年(西暦1863年)三月頃、近藤は同志達と共に将軍警護の為に、出羽浪士・清河八郎が創設した浪士組に参加、京都に向かう。しかし、浪士組の方針や筋道の違いから、清河と袂を分かち自身の一派と水戸脱藩浪士・芹沢鴨の一派と共に京に残り、京都守護職の会津藩主・松平容保の御預り組織・壬生浪士組(新選組の前身組織)を結成する。結成当初は、芹沢や水戸派の新見錦と共に局長を務めていたが、芹沢達の度重なる乱暴狼藉に頭を抱えていた会津藩の勅命によって、試衛館派と共に芹沢一派を粛清したことで、晴れて新選組の局長の座を務めることとなった。
その後、池田屋事件では、自ら隊を率いて先陣を切り、多くの倒幕派志士を討ち取り無傷で生還する。その後、禁門の変や数々の事件で多くの倒幕派志士を弾圧し、更に伊東甲子太郎など有望な志士達を迎え入れ、新選組を大組織へと拡大させる。そして、後に晴れて幕府直参(旗本)となり、念願だった武家の身分を手にするが、15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行ったことで、260年近く続いた徳川幕府の世が幕を下ろしてしまう。その後、思想の違いから脱退し、御陵衛士となった伊東らを殲滅し、油小路事件を起こす。しかし、この事件が仇となって、近藤は二条城からの帰還中に武田街道で待ち構えていた衛士の残党に襲撃され、右肩を負傷してしまう。島田魁ら隊士の奮闘で、伏見奉行所まで何とか逃げ延びるも大阪城へ傷の治療のため隊を土方らに託し戦線離脱する。
その後、鳥羽伏見の戦いで井上を始めとした多くの隊士が戦死し、新選組は敗退する。その後、多くの隊士達と共に船で江戸まで帰還し、甲州勝沼の戦いで新政府軍を迎え撃つも敗北。更に価値観が合わなくなり、永倉や原田ら数名の隊士が離隊し、流山で新政府軍に追い詰められる。
近藤は、隊士達を救う為に土方に新選組を託し、敵軍に投降する。
そして、江戸板橋にて斬首されたのであった。享年35。
能力
戦闘シーンが丸々カットされたため、詳細は不明。
宝具
誠の旗(まことのはた)
- ランク:不明
- 種別:不明
- レンジ:不明
- 最大補足:不明
『帝都聖杯奇譚』において彼自身を召喚した宝具。
新選組の隊長格が共通して保有しており、使用者の心象で召喚される隊士の面子や性格が異なる。
彼が使用した場合にはお堅い新選組が召喚されると言及されている。
関連人物
生前
試衛館以前からの付き合いで幼馴染。彼からは唯一「さん」付けされる。
彼の人生を決定付けた人物と言及されており『帝都聖杯奇譚』では共に召喚される。
試衛館時代からの仲間で、近藤にとっては身内のような存在。また『帝都聖杯奇譚』では織田信長に敗北寸前であった彼女が最後の意地で立てた「誠の旗」に召喚され、沖田を勇気づけた。
かつて共に戦った仲間の1人。一説には試衛館以来からの仲間とも。
一度は新選組を抜けて御陵衛士となるも、実際には土方の策による潜入であった。
また一説によれば斬首された近藤の首を持ち帰り、土方の元に届けたのは彼という説がある。
かつての試衛館以来からの仲間であり、総長を任せた。
近藤と芹沢の両方とも局長に相応しかったため「あの夜」選ぶしかなかったと言われている。
最終的には、山南は新選組を脱走したため切腹を命じることとなってしまった。
しかし山南はこの件に関して近藤に謝りたいと言っている。
かつての試衛館以来からの仲間であり、二番隊隊長。
主従関係でもめたと言われており、若干距離感があった模様。
試衛館以来からの仲間達。中でも井上は近藤にとって同門の兄弟子にあたる。
原田や藤堂も近藤の人柄を慕い、試衛館に属していた。しかし、藤堂は御陵衛士側に……
ともに局長を務め、特に筆頭局長を務めていた人物。
最終的に彼の一派を殺した事や、思想性がなかった事から、蛇蝎のごとく嫌われている。但し、近藤も会津藩や徳川幕府に対する忠義を思想としていたため、決して思想や理念の類はなかったわけではない。また、芹沢が暗殺された理由の半分は彼の今までの悪行が原因なのだが……
近藤を「甘い」と評する。
生前、参謀を務めた元同僚で、藤堂の師匠。
御陵衛士の結成を認めたために、彼からは特に嫌われてはおらず、局長に許可を得たにもかかわらず暗殺者を差し向ける土方やその部下の心無い刃の沖田に慕われている事を憐れまれている。
新撰組と親交の深かった幕府の蘭方医で、後の初代陸軍医総監。
当時の新撰組は病人が多かったことから、衛生環境の指導や隊士たちの診療のために度々往診していた。また攘夷派に命を狙われた良順は、近藤の所へ訪ねてきたことがあり、その際に「見苦しく斬られないように」と相談し、天然理心流における心得を教わったことがある。
良順は維新後に永倉新八の頼みで、近藤と土方の供養塔の建立している。
会津藩9代目藩主。近藤ら新選組の雇い主で、近藤が最も慕い忠誠を誓う人物。
新選組の前身である浪士組の結成に関わった幕臣で、一刀流各派を極めた剣豪でもある。
後に新政府軍の駐留地に単身で乗り込み、西郷隆盛と交渉して江戸無血開城の成功に貢献し、維新後は独自の流派を立ち上げた。
最近の研究で、近藤と親交があり彼に鎧を寄進していたことがわかった。
幕臣で、新選組と双璧を成した治安維持組織・京都見廻組の与頭(局長格)でもある。「小太刀日本一」の異名を持った。新選組とは管轄争いなどを行った事もあったが、親交はあった。
また史実では、佐々木ら見廻組は坂本龍馬を暗殺したとされている。
近藤つね
生前の正妻。旧姓は松井。彼女との間に娘のたまを授かった。
また、近藤の死後に再婚を勧められた際、自殺未遂を図ろうとする程、彼の事を愛していた。