人物
ペンネームのように見えるがこれは本名で日本の氏族の一つである野長瀬氏の末裔であり、名前の三摩地は仏教用語のサマディーにちなんで名づけられた。
作品によっては(主に脚本業で)南川竜、南川龍名義を使うこともある。
これは本名が長いことから短い名前に憧れて付けたもので、「南」は飯島敏宏のペンネーム千束北男にあやかってのもの。
父は大正時代の画壇で活躍した画家の野長瀬晩花。
画家の父によく映画に連れて行ってもらった経験から映画の道を志し、1946年、日本大学芸術学部映画学科卒業後、東宝に入社。渡辺邦男、青柳信雄、本多猪四郎らのもとで助監督として勤め、主に杉江敏男監督作に従事。
黒澤明の『隠し砦の三悪人』や『蜘蛛巣城』のほか特撮映画『モスラ』でチーフ助監督を担当する。
助監督時代の作品に多く出演していた小泉博は「明るく元気な人物だった」と評している。
黒澤からは監督デビューを打診されていたが、助監督が監督になる際には黒澤が脚本を執筆し編集も行うという黒澤組の決まりに反発して断り、黒澤組を離れた。
それからは監督昇進の機会はなく、1964年には映画業界が斜陽に入ったことをいち早く察知してテレビ部門へと移り、『銀座立志伝』で監督デビュー。
東宝で偶然再会した円谷英二の誘いで円谷プロダクションに入社し、『ウルトラQ』第5話「ペギラが来た!」で空想特撮シリーズの監督を手掛ける。
円谷譲りのどれだけ予算をかけてもいい物を作るという指針から、「ペギラが来た!」では南極の大規模なセットを作っている。そのため撮影の多くは予算を超過していたという。
一方で「ペギラが来た!」では宙を舞う場面の撮影のために回転するカメラの台座を作ったり、「東京氷河期」では怪獣が開けた穴に少年が落ちるギミックなど工夫を凝らした演出も行っている。
「ガラモンの逆襲」でセミ人間の人間態を演じた義那道夫は野長瀬の推薦で起用が決まった。
『ウルトラマン』では主に子供が中心となるエピソードを手掛けており、子役のオーディションで怪獣映画の感想を聞くなど子供の好みや怪獣映画の在り方を熱心に研究していた。
「バラージの青い石」は的場徹が『奇巌城の冒険』のセットが使えないかと提案、野長瀬が東宝と交渉したところ許可が出たためこのセットを使用する前提で急ぎ脚本を執筆した。
脚本はわずか3~4日で仕上げることが多く、他の脚本家が執筆に時間がかかるのを疑問に思っていたという。
共作でクレジットされている場合は「半分以上手を入れた場合」にクレジットを入れている。『ウルトラQ』の「海底原人ラゴン」は「画にならないので直さざるを得なかった」と語っている。
ミステリー作品を好み、主に等身大の宇宙人が闇夜や霧に紛れて近づいてくるなど怪奇描写も特徴のひとつである。『ウルトラマン』第28話「人間標本5・6」はバルタン星人の合成技術に感銘を受け、オーバーラップ撮影で宇宙人の怪奇性を表現できないかと挑戦したという。
実相寺昭雄が手掛けた第34話「空の贈り物」の有名なスプーン変身のシーンに反発し噛みついたが、金城哲夫から「円谷さんが『テレビだからいいんじゃないかって』って言っていた」と聞かされて口をつぐんだという。もっとも実相寺の演出手法は自身も影響を受けており、レフ板を使わず逆光で撮るなどの手法を自身の作品に取り入れている。
『快獣ブースカ』の最終回はストーリーを気に入り丁寧に撮影し、日本テレビ側から「泣かせすぎだ」と苦言を呈されたが野長瀬本人は自信作と自負していた。
『ウルトラセブン』や『マイティジャック』撮影中、親しい映画関係者から「このままでは子供番組のレッテルを貼られるぞ」と言われ、反発を覚えつつも円谷プロを離脱。東宝テレビ部門に復帰し、『鬼平犯科帳』などの時代劇を手掛ける一方、『メガロマン』や『円盤戦争バンキッド』といった東宝特撮の監督を担当したが、脚本の弱さを嘆いていたという。
1980年、『ウルトラマン80』でウルトラシリーズに復帰するも1982年に東宝を退社。
フリーランスとして記録映画を撮影したほか、母校である日本大学で教鞭をとっていた。しかし1990年代には体力の衰えから映画撮影の現場を退き、1995年には歩行困難にも陥り1996年5月23日死去。享年72歳。