日本国有鉄道(国鉄)が1954年から1957年までに64両製造した2車体連結8軸方式の貨物用直流電気機関車。
概要
当時存在した急行貨物列車用の貨車とお揃いの真っ黒な塗装に細い黄帯が特徴で、その容姿と独特のブロワー音から「マンモス」「クマバチ」という渾名が付けられた。
国鉄電気機関車としてはデザインが旧性能機ともED60以降の新性能機およびEF58(新)とも異なる、独特の車体形状と黒の塗装で竣工している。これは外部のデザイナー(萩原政男。後に名鉄でパノラマカーを手掛けた人物)によるもので、当時の国鉄では珍しかった。
1955年に東海道本線の稲沢駅〜米原駅間が電化開業される際、垂井駅〜関ケ原駅間にそびえる道中の難所である関ヶ原の峠を単機牽引で走破する貨物用電気機関車が求められた。しかし、1950年代前半当時の技術では1基あたり400kW以上の高出力電動機が開発できなかったため、既存のEF15形と同等の主電動機を8基搭載した、H級クラスの機関車として設計・開発された。
全長22.5m・総重量116.0tと国鉄では前代未聞の大型機であり、主台枠・先輪・デッキ(旧型電機共通の蒸気機関車から踏襲した構造)の廃止とボギー台車・車体台枠構造(スイベル式)構造の採用などで重量はなるべく抑えられている。この車両構造・スタイルは後に登場する新性能電機と同様であるが、電装機器類はEF15とほぼ共通であるため、分類上は旧性能電気機関車とされている。
量産先行機と呼ばれる最初に登場した4機はパンタグラフが中央寄りに2基搭載されているのが特徴。これは軽量化のために高圧電線の長さを短く抑えた結果である。しかし、架線を押し上げる力が強くなりすぎること、軽量化を徹底しすぎて重量バランスが崩れたことから、量産機は一般的な前パン配置に改められた。
運用
1956年に東海道本線が全線電化され、山陽本線も1958年以降に姫路駅・上郡駅・倉敷駅と電化区間が次々西進し、宇野線も1960年に電化されてからは汐留駅〜岡山操車場・宇野駅間の一般貨物列車の牽引を担当した。1959年から運行開始した汐留駅〜梅田駅間のコンテナ特急「たから号」の牽引(誕生当初は汐留駅〜吹田操車場間がEH10、吹田(操)〜梅田駅間はD52)といった花形運用もあった。EF60やEF65といった新性能機(ただしEF60は高速域での故障が多発し短命であった)が台頭すると、次第に地味な運用へ追いやられていった。それでも、8軸駆動による余力の大きさや、旧来の堅実な走行システムは高く評価されていた。1970年10月に岡多線の岡崎駅〜北野桝塚駅間が開通すると自動車運搬列車の牽引を担当した。
しかし、国鉄最強の電気機関車であるEF66の量産化によって次第に居場所を追われたうえ、瀬野八で補機と協調運転できないため岡山以西に入れなかった。運用を(呉線と接続する)糸崎駅や三原駅まで拡大する案もあったが煩雑になるとのことで実施されなかった。さらに耐雪ブレーキやバーニア制御がないため急勾配線区に入れないこと、車体が大きすぎて他路線に転用できないことが次第に足かせとなっていった。
車両の老朽化も重なり、歯車比変更による高速化や、バーニア追加などの急勾配対応といった改造もされず1975年より廃車が進められ、1981年に運用終了、1982年までに廃車された。最後まで残った61号機は、阪急淡路駅を下車して徒歩10分の大阪市東淀川区の公園に保存されている。
高速試験
15号機のみ旅客列車の120km/h運転試験機として落成し、塗装も茶色基調に、主電動機も高速仕様に改められて登場した。試験は同機を先頭にEF58同伴のもと、10系客車を牽引して行われた。
試験は目論見通り成功し、旅客用バージョンとして「EH50」も構想されたが、電車化の方が合理的と判断されたために計画は中止。のちに151系「こだま形」の誕生に繋がっていく。なおこの試験の際には実際に特急「つばめ」を牽引した事もあり、生涯一世一代の晴れ舞台にもなった。
関連タグ
ED62…改造元のED61とその原型のED60はEH10と対比され「アトム機関車」と呼ばれた。