概要
生 没:天文12年(1543年) - 天正13年7月27日(1585年7月27日)
別 名:万千代(幼名)、宗惟(法号)、ドン・パウロ(霊名)
官 位:従三位、権大納言
父 母:一条房基(実父)、大友義鑑娘(母)、一条房通(養父)
妻 :宇都宮豊綱娘(正室)、ジュスタ (大友義鎮次女、継室) 他
子 女:内政 他
前半生
土佐一条氏の3代目当主・一条房基の子として、土佐の中村にて生を受ける。
兼定の生まれた土佐一条氏は五摂家の一つ・一条氏の庶流の一つであり、公家(在国公家)でありながらも所謂「土佐七雄」と呼ばれる、土佐国内の有力国人の盟主ともいうべき立場にあった(※)。しかし天文18年(1549年)、父の房基が突然の自害に及んだことで、兼定はわずか7歳でその跡を継ぐこととなる。
家督継承当初はかつての父と同様に、大叔父の一条房通(祖父・一条房冬の弟)の後見を受け、その猶子として扱われてもいた。弘治2年(1556年)に房通が死去した後に元服。房通の後継者で、義兄である一条兼冬(房通の長男)の偏諱を受け兼定と名乗る。父の死後一旦は上洛していた兼定は、元服から程なくして再び土佐に下向したと見られる。
知勇に優れ、土佐一条氏の勢力を拡大しつつあった実父・房基の死により、その勢威にも陰りが見え出したとはいえ、兼定も土佐下向から間もない永禄元年(1558年)には宇都宮豊綱(伊予宇都宮氏当主)の娘を娶り、さらに6年後には大友義鎮の次女・ジュスタを継室に迎えて大友氏とも同盟を結ぶなど、周辺勢力との連携強化に努めている。
永禄11年(1568年)には、依然として同盟関係を維持していた宇都宮氏を支援し伊予への進出を図るも、迎え撃つ河野通直(弾正少弼)も、大友氏と敵対していた安芸の毛利元就からの援兵を得て抵抗に及び、宇都宮・一条の連合軍は小早川隆景らの率いる毛利軍の前に敢え無い敗北を喫した。
(※ 土佐一条氏については、長らくこれを戦国大名(公家大名)ないし国司とする見方が一般的であったが、在地支配において土佐一条氏が直接文書を発給した形跡や、朝廷より正式に国司に補任された事実が認められないことなどから、あくまでも地方に在国しつつ公家としての権威を背景に領地を治めていた勢力、との解釈が昨今では広まりつつある)
長宗我部氏の台頭と追放
この伊予進出の失敗、さらに四国における政略を巡り関白・一条内基(兼冬の弟)との関係も疎遠になりつつある中、本国・土佐においては土佐一条氏の傘下にあった長宗我部元親が、主家からの独立を志向し次第に勢力を増しつつあった。兼定もこの動きを捨て置けず、妹婿の安芸国虎と組んで元親を討伐しようとするが、反対に国虎は元親に敗れて自害してしまう(八流の戦い)。
これ以降、土佐一条氏はその領土を長宗我部氏に侵食されていく事となり、元亀年間に入ると家臣の津野氏は事実上長宗我部氏に乗っ取られ、さらに智勇兼備の重臣・土居宗珊とその一族も無実の罪で誅殺されるなど、家中にも様々な混乱や内紛が生じ始める。
宗珊の誅殺については、敗戦続きから酒色に溺れるようになった兼定の素行を諌めたが故の上意討ち(『土佐物語』より)とも、また実際に長宗我部氏との内通を疑われたが故(『四国軍記』より)とも伝わるが、いずれにせよ兼定の信望を失墜させるには十分な出来事であった。
こうした事態を経て、天正2年(1574年)2月に兼定は居所としていた中村御所を退去、舅の大友宗麟(義鎮)を頼って豊後臼杵へと逃れた。この兼定の伊予退去は長らく、一条家中の老臣たちによる追放として説明されてきたが、昨今の研究の進展から京都の一条内基と、長宗我部元親との間で協議ないし暗黙の了解があった上で、元親によって追放の憂き目に遭ったとする見方が有力視されている。
兼定の伊予退去に伴い、同時期に元服した嫡男・一条内政(ただまさ)が土佐一条氏の家督を継ぐこととなった。内政の擁立は舅となっていた元親の後ろ盾によるものが大きく、この追放の折に土佐一条氏傘下の国人の一部が、兼定追放を支持した家老達の討伐に及ぶとその混乱の鎮定を名目に、土佐一条氏の本拠であった中村を占領するなど、ますます土佐一条氏への影響力を強めていくのである。
晩年
こうして国を追われた兼定であったが、その後も旧領回復の志は捨てておらず、天正3年(1575年)には再び土佐へ舞い戻り、3500の軍勢を率いて四万十川で長宗我部軍と合戦に及ぶ。しかし「一領具足」制度を活用し、短期間で7300の軍勢を動員した長宗我部軍の前には為す術もなく、合戦はわずか数刻の内に一条軍の敗北という結果に終わった。
この合戦により長宗我部氏の土佐統一は確実なものとなり、戦国大名としての土佐一条氏はここに滅亡を迎えた。
四万十川の合戦に先んじてキリスト教に入信し、ドン・パウロの洗礼名を与えられていた兼定は、この敗戦を機に瀬戸内海沖の戸島(現・愛媛県宇和島市)にて隠棲生活を送るようになる。後述の通り決して安穏なものではなかったとはいえ、それでも熱心な信仰生活を送っていた様子が、親交のあったイエズス会巡察師・ヴァリニャーノの書簡などに残されている。
そして10年近くに亘る隠棲の末、天正13年7月1日(1585年7月27日)に当地にて43歳で死去。奇しくもこの少し前に、やはり長宗我部氏によって追放の憂き目に遭った息子の内政も亡くなったと伝わっている(内政の死去した時期については異説もあり)。
この頃までに、仇敵の長宗我部元親は四国統一を成し遂げていたが、程なくしてその元親もまた羽柴秀吉の軍門に下るという、皮肉な運命を辿ることとなるのである。
創作
信長の野望
目を覆わんばかりの低い能力値、層が薄いにも程がある家臣団(土居宗珊を除く)、そして立地は強力な大名である長宗我部の隣国という絶望ぶりから、かえってカルト的な人気を誇る。
再評価の傾向が出てきた今川氏真に代わり、ネタキャラの枠を確固たるものにしつつある。
最新作の創造まではワースト1のままだったが、創造PKにて彼を下回る能力の持ち主である阿部正豊が登場したのでワースト2となった。
戦国無双
武器:槍(4-Ⅱまで?) 刀剣(4Emp) 声:福原耕平(2) 岡本寛志(3) 宮坂俊蔵(4)
「長宗我部の力、ここまでとは…!もはや、土佐には帰れんのか…」(4:四万十川の戦いより)
「あの女にそそのかされて兵を挙げたが、やはり無謀であったか…無念ぞよ…」(同:撃破時台詞)
「高貴な一条家の出の兼定が、何故直接戦わねばならんのだ…」(4Emp特殊台詞)
「名門の長として…これ以上、長宗我部の台頭を許すわけにはいかん! 一条家に恩のある者は集え!力を結集し、元親を滅ぼすのだ!」(4Emp:四万十川の戦い開始直前台詞)
「一条家は、名門中の名門!ぼっと出の長宗我部には負けぬわ!」(同上:総大将登場台詞)
Empの頃から最弱武将の1人であり、2では公家ボイスモブの1人であった。4で公家デザインの特殊モブとして登場。小少将に唆されて長宗我部元親と四万十川で対戦するが、敗れて大友家を頼った。
4Empでは固有のデザインで登場し、信長の野望シリーズと同じく土佐一国の大名として初登場となり前作には無かった特殊セリフまで追加された。(前2作では土佐にて牢人状態)
殿といっしょ
常にオカマ口調で話す軟弱な男で、オカマキャラがカブっている元親を勝手にライバル視している。
容貌は勿論能力も(美貌と仁徳以外十人並みの)元親に大きく水をあけられており、部下からの人望は全く無く、敵襲と同時に盾にされる始末である。
案の定長宗我部軍にボコボコにやられて落魄し、義父である大友宗麟(及び部下一同)からも電光石火で見捨てられてしまうが、元親のヘタレぶり(及び一両具足&元親末弟香宗我部親泰のヘンタイぶり)に愛想をつかした元親次弟・吉良親貞により反乱軍の神輿に担ぎ上げられる。
しかし実際は・・・?
以上のように、褒めるべき点が何もない暗君そのもののように見られがちな人物であるが、一方で四万十川の戦いにおいて敗れはしたものの、かつて傘下にあった土佐や伊予の土豪たちが兼定の下へ多数参集したという事実からも窺えるように、決して人望皆無だったという訳でもなく、また隠棲生活に入ってからも長宗我部氏の息のかかった旧臣に暗殺を企てられるなど、敵である長宗我部氏もまた最後まで兼定の存在を無視出来なかったようである。
そもそも、兼定の追放は本人の資質の問題よりも、先に触れたように京都の一条家の意向によるところが大きいというのが今日では有力視されている。時の一条家の当主であった内基は、土佐一条氏の戦国大名化を嫌っており、そのため兼定に対して権中納言への昇進と引き換えにこれを隠居させ、一方で長宗我部氏に対しては土佐西部の支配を認めることで、一条家の権益を保持しようと考えていた形跡も見られる。
前出の四万十川の戦いでの在地勢力の参集についても、長宗我部氏の勢力伸長を警戒視する南伊予の反長宗我部勢力が、その対立軸として兼定を擁立したという側面もあり、結果として元親・・・というよりは本来兼定がその意向に従うべき相手である内基に、反旗を翻す格好となったとの見方も示されている。
上記の創作も含め、後世に伝わる兼定の人物像は『土佐物語』を始め、この人物像が作られた際に依拠していた史料がかなり時代が下ってから編纂されたものであること、またかつて敵対していた側である長曾我部氏の活躍・興亡を主体に描かれたという点にも十分留意する必要がある。長曾我部のプロパガンダにこの現代になってまで付き合う必要はない。
・・・なぜか付き合ってしまったのがコーエーの信長の野望の中の人たちなのだが。
何より、かつて土佐一条氏が本拠としていた高知県四万十市にある「一條神社」には、歴代の当主と並んでこの兼定も祀られているのである。本当に目も当てられぬほどの暗君であったならば、神社に祀られることもなかったであろう。