概要
系譜
久邇宮朝彦親王
文政7年(1824年)に誕生し、出家して青蓮院の門跡となり尊融入道親王と名乗る。その後還俗し中川宮と名乗る。文久3年(1863年)に八月十八日の政変を実行した。その後もいくつかの宮号を名乗っている。慶応3年(1867年)に安芸国に追放されたが明治3年(1870年)に復帰し久邇宮を創始した。
久邇宮邦彦王
邦彦王は明治6年(1873年)に誕生したが本来は兄の邦憲王が久邇宮を相続するが病弱なため久邇宮を継ぐことになった、邦彦王は陸軍の軍人として日露戦争に参加、妃は薩摩藩島津忠義の八女俔子。
三男邦英王は東伏見宮家の祭祀を継承している。これは、皇族の養子縁組が禁止されていたため、疑似的に宮家の当主を継承するためのものであった。後に天台宗青蓮院門跡の門主・東伏見慈洽を名乗り、記録の確かな皇族出身者として歴代最高齢の103歳7ヶ月と16日で没。
久邇宮朝融王
朝融王は明治34年(1901年)に誕生したが伯爵酒井忠興の娘菊子との婚約を破棄し伏見宮博恭王の王女知子女王と結婚、朝融王は海軍に入り海軍中将まで上がった。
朝融の死後、邦昭が久邇家当主を継承。伊勢神宮大宮司・神社本庁統理を務めた。
多嘉王
朝彦親王の第五王子として誕生したが始め西久邇宮を創始するという説があった。
邦憲王の死後に神宮祭主に就任した。妃は水無瀬忠輔子爵の娘静子。
長男賀彦王は夭折し、次男・家彦王と三男・徳彦王はそれぞれ宇治・龍田の家名を賜り臣籍降下の上伯爵に叙された。このため多嘉王の系統は皇室に残らなかった。
分家
宮家
久邇宮朝彦親王の第二王子賀陽宮邦憲王が創始。
久邇宮朝彦親王の第八王子朝香宮鳩彦王が創始。
久邇宮朝彦親王の第九王子東久邇宮稔彦王が創始。