概要
アメリカ人の父と日本人の母との間に生まれたハーフ。のちに両親の離婚により、兵庫県尼崎市へ移住。
その後、香川県の尽誠学園高校へ進学。1987年のドラフト会議で、当時のロッテオリオンズが交渉権を獲得し、ロッテへ入団。
1993年の5月3日の西武戦(西武球場)で清原和博と対戦した際の球速158km/hは、日本人投手が日本国内の球場設置のスピードガンで計測したものとしては当時最速のものであった。
ロッテでプレーしたのち、アメリカへ渡り、ニューヨーク・ヤンキース (1997年~1999年)、モントリオール・エクスポズ (2000年~2001年)、テキサス・レンジャーズ (2002年)でプレーした。
2003年に阪神タイガースに入団し、日本球界に復帰。1年目こそリーグ優勝に貢献する活躍をしたが2年目は打ち込まれる場面が目立ち、この年で戦力外通告を受ける。そして1度目の現役引退を表明。
その後、2005年には再び渡米し、永住権を取得。友人とともにうどん屋を開業し、実業家に転身した。
同年戦線復帰し、アメリカ・ロングビーチアーマダ、日本・四国九州アイランドリーグの高知ファイティングドッグスを転々とし、2度目の引退を表明。
2008年夏には大阪でバーの店長を暴行した罪に問われ、現行犯逮捕。起訴処分となった。
2010年にはアメリカで飲酒運転の疑いで逮捕。
2011年7月27日、ロサンゼルス郊外の自宅で首を吊った状態で見つかり、死亡が確認された。享年42。自殺とみられている。
自殺の理由としては、経営していたうどん屋の破綻、妻子との別居、将来に対する不安などが挙げられている。
人物
様々な問題行動が目立った一方で元来の彼は極めて繊細な性格で、先輩であった牛島和彦は「投球フォームの腕を上げる高さから足を下ろす位置、それによる球の軌道までをミリ単位といえる細やかさで考えているのが伊良部という投手」と評価している。
こうした性格は先輩後輩問わず慕われ、人望の厚い人物であったことは多くの選手からの証言もある。
また、ファンサービスや慈善事業にも積極的で、「何であんなに新聞などで叩かれていたのか分からないくらい良い人」と評されるほど気さくな人物としても名高い。
問題発言や行動は多くあったにせよ、彼は単純に「マスコミが嫌っているだけで、ファンや関係者からは深く愛された選手」だったと言える。それだけにかつてプレーしたヤンキースのチームメートからもその死を悼まれ、またプロ野球界からも哀悼の意を表明する人物が多かったのかもしれない。
野球選手として
160キロに迫る剛速球を武器としたパワーピッチャーと誤解されがちな面があるが、実は前述のとおり極めて理論派な一面も持つ。2003年にオールスターでボールを受けた古田によると、伊良部は軟投派になっていたと言われ投球術を駆使した技巧派としての一面も見せていた。
これには、ロッテ時代ライバルだった清原和博に157キロのストレートを痛打されたことから、投球術を磨くことを痛感したためだと言われている。
ただ「投球」という面では極めて繊細でミリ単位で考える一面がある一方、守備やランナーが出てからの投球には難を抱えており、結果として自滅してしまうことも少なくなかった。