北条重時
ほうじょうしげとき
生没年 建久9年(1198年)6月6日~弘長元年(1261年)11月3日
鎌倉幕府の第2代執権・北条義時の三男として生を受ける。異母兄に第3代執権・北条泰時、同母兄に名越流北条氏の祖・北条朝時、異母弟に第7代執権・北条政村、金沢流北条氏の祖・北条実泰、伊具流北条氏の祖・北条有時。子に赤橋流北条氏の祖で第6代執権でもある北条長時、六波羅探題北方を務めた北条時茂、自らの外孫である第8代執権・北条時宗の下で連署を務めた北条義政、時宗時代の末期から第9代・貞時時代の初期にかけて連署を務めた北条(普恩寺)業時らがいる。
北条時茂は足利尊氏の曽祖父にあたるため、尊氏にはじまる足利将軍家や関東公方家は重時の女系子孫である。
前半生
父・義時の正室・姫の前の子として朝時に次いで生まれるが、『吾妻鏡』において、他の兄弟たちと異なり元服に際しての記録が残されていないことに代表されるように、重時の幼少期から成人するまでの期間について、これを詳しく記録した史料は殆ど存在していない。
とはいえ6歳の頃に発生した「比企能員の変」に関連して、比企氏の出であった母・姫の前が夫との離別を余儀なくされており、また15歳の時には同母兄・朝時も将軍御台所の官女を巡る失態が原因で父・義時や時の鎌倉幕府将軍・源実朝の勘気を蒙って義絶・蟄居の身となる(1年後に鎌倉へ召還)など、幼少期の重時を取り巻く環境は必ずしも芳しいものでない事が窺える。
六波羅探題北方
重時の名が幕政の表舞台に現れるようになるのは、承久年間に入って彼が小侍所の別当に就任してからの事となる。その後異母兄・泰時が3代執権として幕政を主導する中、承久の乱の後京都に置かれていた六波羅探題の北方に、病にて同職を辞した甥・時氏(泰時の嫡男)の後任として着任する事となる。寛喜2年(1230年)、重時33歳の出来事であった。
六波羅探題に着任後、重時は実に17年もの長期に亘って同機関の最高責任者を務める事となる。問題を起こした在京の御家人に対しては、たとえそれが縁者であろうとも直ちに捕縛するなど、その政務に対する姿勢はとかく迅速、そして厳格かつ公平なものであった。また、自身が浄土宗の熱心な信者であった事から撫民政策にも重きを置いており、これらの施策・姿勢は幕政全体にまで少なからぬ影響を与えたと見る向きもある。
この他、貞永元年(1232年)に幕府が『御成敗式目』を制定した際には西国での施行にかかわり、嘉禎元年(1235年)から翌年にかけては興福寺対石清水八幡宮、延暦寺対佐々木氏などの寺社紛争の解決にも尽力した。さらに政治活動のみならず、藤原定家らとも親交を持ち文化的な活動にも努めており、この頃に詠んだ和歌の中には後年編纂された『玉葉和歌集』などに収録されたものもある。
着任から12年目の仁治3年(1242年)に四条天皇が崩御すると、執権・泰時と共に邦仁王(土御門天皇の遺子)の擁立を画策。縁戚関係にあった土御門定通との連携で邦仁王が後嵯峨天皇として即位すると、政治的基盤の弱い御嵯峨天皇を支えていく事となる。
一方、同年には皇位継承問題に絡んでの心労や体調不良により、執権・泰時が逝去。この時同母兄・朝時がその後釜を巡って不穏な動きを見せる中、朝時とは対照的に泰時と良好な関係にあった重時は引き続き、得宗家を支える立場を担っていく。
幕府の重鎮として
宝治元年(1247年)に発生した宝治合戦を経て、重時は5代執権・北条時頼の要請により、叔父・時房逝去以来空席となっていた連署に就任、17年ぶりに鎌倉へと帰還する事となる(六波羅探題北方の後任には重時の嫡男・長時が就任)。この時既に50歳となっていた重時であるが、兄・泰時在世時以来からの合議制を踏襲し、若き執権の補佐・指導に精力的に当たった。また長女の葛西殿を時頼の正室として嫁がせるなど、得宗家とのさらなる関係強化も図っている。
建長8年(1256年)、還暦を迎えるのを前にして出家し、鎌倉・極楽寺にて隠居生活に入った。これに伴い異母弟・政村が後任の連署に、嫡男・長時が評定衆にそれぞれ任命されている。また重時の隠居から程なくして、執権・時頼も病を理由に出家しており、幼少の嫡男・時宗が成長するまでの中継ぎとして、長時が6代目の執権に就任している。
弘長元年(1261年)の夏に病に倒れ、一旦は快復したものの11月3日(1261年11月26日)、極楽寺にて64年の生涯を閉じた。それぞれ母親が異なる息子達が自身の死後、所領の配分を巡り対立や独立に及ぶことを懸念していた重時は、生前より後述の二つの家訓を記しその中で、息子達に兄弟間で固く結束するよう説いている。いずれも武士の家訓としては、日本史上最古のものと言われる。
「六波羅殿御家訓」、「極楽寺殿御消息」の2種類があり、前者は壮年期、嫡男・長時に与える訓戒として作成され、後者は出家後、一般的な子孫への教訓として作成された。内容を一部改め、作者を北条時頼に仮託した異本(「西明寺殿教訓書」)が室町時代に流布した。
その内容から重時の几帳面な性格や、世間からの評判に特に気を使う一面、さらには庶家の当主故の苦衷や屈折などが垣間見える、と評される事もある。また前者において執権(「年も若く」と記されている事から4代執権の経時、もしくは時頼ではないかと見られている)に対する応対の仕方を説くくだりから、重時が家柄や地位よりも政治面での実績に評価の重きを置いていたのではないか、と指摘する向きもある。
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