- 鎌倉時代の武将、政治家。(1251~1284)
- NHK大河ドラマ第40作目『北条時宗』。2001年放送。→北条時宗(大河ドラマ)
概要
建長3年5月15日(1251年6月5日)~弘安7年4月4日(1284年4月20日)
鎌倉幕府・北条家嫡流(得宗)・5代執権・北条時頼の嫡男として生まれる。母・葛西殿は北条一門の重鎮・北条重時の娘。重時は娘の夫でもある得宗・時頼が執権に就任すると、みずからも連署に就任、時頼とともに幕政を主導した。なお、異母兄として文永9年(1272年)に起きた「名越教時の乱」(二月騒動)に連座して滅ぼされた北条時輔、同母弟・宗政、異母弟・宗頼らがいる。
康元元年(1256年)、父・時頼が病を得て出家、嫡男・時宗は幼少だったため、文永元年(1264年)までは一族の北条長時が、長時の死去後には一門の長老・北条政村が「中継ぎ」として執権職に就き、時宗は連署に就任する。
文永5年(1268年)、大陸で版図を拡大していたモンゴル帝国から、国交(実際は従属)を求める皇帝クビライ・カーンの国書を携えた使者が訪れた。幕府がその対応に追われるなか、時宗は18歳の若さで執権に就任、それまで執権を務めていた政村が連署に就任し、北条実時、平頼綱らが補佐役となり、いまだかつてない国難に対処することとなった。
幕府は当初、モンゴルからの要求を黙殺していたが、業を煮やしたクビライはついに、文永11年(1274年)、日本に艦隊を派遣。元寇「文永の役」が発生する。
九州での元軍と日本勢をの戦いを遠方の鎌倉から指揮。しかしながら、元軍は「鉄砲(てつはう)」(手榴弾のようなもの)や矢を連射できる「弩」(ボーガンのようなもの)などの新兵器を使用しての集団戦法を駆使するのに対し、日本勢は平安時代から変わらぬ大鎧と「一対一」を基本とし戦いの前に名乗りあう旧態依然の作法を重視しており、この軍備の差と意識のずれに日本勢は苦戦を強いられることとなる。しかし、元軍の主力は征服した金や南宋などの敗残兵で構成されていたことから士気が低いうえ、朝になると来襲し夜になると船に引き上げることをくり返したため、後に「神風」と呼ばれる暴風雨により、元軍は撤退し辛うじて侵略を防ぐことに成功した。
建治元年(1275年)、時宗は降伏を促す元からの使者を鎌倉で処刑、弘安2年(1279年)にも再び訪れた使者を大宰府において処刑。明確な意思表示をモンゴル側に見せた。
このことに激怒したクビライは、弘安4年(1281年)に前回以上の艦隊を派遣、幕府軍と再び戦端が開かれることとなった。「弘安の役」である。
一方日本側では時宗の指示により、元軍の上陸を阻止するために博多湾沿岸に防塁を築き、異国警護番役を設置しており、準備の甲斐あって水際作戦は効を奏し、持久戦の様相を呈した。
そうこうするうちに再び台風の季節が訪れ、台風の直撃を受けた元軍は壊滅することとなった。
幕府は新たなる元の襲来を怖れて博多湾周辺の警備を重視する。しかし、一部の武士を除いて恩賞を与えることができなかったばかりでなく、警備のための費用も武士たちに賄わせたため、武士たちの幕府に対する不満は募ることとなり、幕府はやがて崩壊への道をたどることとなっていった。そのさなかに高麗や元への逆侵攻を計画したが、その理由は防衛や報復だけではなく、御家人へ与える所領を得るためだったとも言われる。
弘安5年(1282年)、時宗は中国からの渡来僧・無学祖元を招いて円覚寺を建立。
弘安7年(1284年)には病の床にあり出家し、同年4月4日死去した。死因は結核とも心臓病とも言われる。
評価
近世になってから時宗への評価が見え始め、外国からの侵略という空前絶後の国難を退いたという点から肯定的評価が多く、尊皇攘夷論が起こった幕末では評価の傾向は強まり、太平洋戦争が起こった昭和にはさらに礼讃が強まった。
戦後になると代わって否定的評価が出始める。苛烈なほどの体勢固めの粛正、情報の偏りや欠落した国際意識による外交姿勢などから、蒙古襲来の原因を招いたという見方すらある。また、モンゴルに反感意識の強かった南宋からの来日禅僧たちによって外交姿勢が決まったとも、政策決定は若い時宗ではなく重臣たちの意見が強く反映されているともされている。
創作物における北条時宗
元寇を題材にした作品では時の執権として登場。
北条時宗が登場する作品
- 学研まんが人物日本史:イラストは伊藤章夫氏。彼の三十数年足らずの人生を、時宗に仕えた御家人の若者達や教育係の活躍と絡めて活写する。
- 渡部昇一氏の著書:「皇室入門」や「渡部昇一の中世史入門」で元寇による国難を救った立役者として描かれる。
- 杉山正明氏の書籍:モンゴル帝国関係の書籍に多く登場。従来の日本主体の史観では無く、世界史の視点から彼を読み解く斬新な解釈がなされる。なお、杉山氏は大河ドラマの時代考証を担当している。
- 井沢元彦氏の書籍:「逆説の日本史」などで元側の狙いやそれに対応する時宗の活躍を緻密に描く。彼と神風にまつわる論説も多い。
- コーエーの歴史ゲーム:蒼き狼と白き牝鹿の3作目「元朝秘史」に妻の堀内姫、子供の北条貞時と共にデビュー。「チンギスハーン」では神風ばかりか、挫折した大陸侵攻を成し遂げるイベントを受け持つなど主人公的な地位を獲得。史実通りに有能だが、後半生の失政のためか武力や知性に秀でるが政治がイマイチ。信長の野望にもエディット用の顔グラとして存在する。
- 咲村観氏の小説『執権北条時宗』:1985年に出版された小説。上下の全2巻。
- 高橋克彦氏の小説『時宗』:大河ドラマ『北条時宗』の原作小説。全4巻。さいとう・たかを氏による漫画版(コミック版・全6巻、SP版・全3巻)もある。Kindle版も発売されている。
北条時宗を演じた俳優
『蒙古襲来 敵国降伏』 1937年 映画 演:林長二郎(長谷川一夫)
『かくて神風は吹く』 1944年 映画 演:片岡千恵蔵
『日蓮と蒙古大襲来』 1958年 映画 演:八代目 市川雷蔵
『風雲児時宗』 1961年 テレビドラマ(フジテレビ) 演:松本錦四郎
『北条時宗』 2001年 テレビドラマ(NHK大河ドラマ)演:小池城太朗→浅利陽介→和泉元彌
大河ドラマの主人公としての北条時宗
脚本家・井上由美子が『等身大のヒーロー』として描き、和泉元彌が直球で演じた生真面目で優しい性格の純粋で嘘や隠し事が苦手な青年。往年の『カリスマ性あふれる若き執権』という像からは離れた約700年後の世にいそうなキャラ、とはドラマチーフプロデューサーの弁。第1話の終盤に誕生した。
時宗が生まれる前に起きた宝治合戦によって互いを愛しながらも二親の仇として憎しみ合う複雑な関係となってしまった両親(作中での時宗の母・涼子は『毛利季光の娘で北条重時の養女』という時頼の正室と継室・葛西殿が混ざった設定)のもとで育ったことから、極力戦をせずに物事を解決しようとの考えを持つ。3歳上の異母兄・時輔とは何かと比べられており、幕府内でもどちらにつくかで割れるほどだった。時輔は自身の母の死と死の直前の「そなたは時宗殿に負けるのじゃ!」という言葉に悶々とした気持ちを抱いており、一度時宗と1人の男として勝負をつけるために小笠懸対決を持ちかける。時宗は迷いながらもこれを了承。2人は悪天候の中、由比ヶ浜にて密かに弓の腕を競い合う。この決闘に立会いの者はおらず(神出鬼没の商人・謝太郎はこの決闘をこっそりみていた)、結果も2人だけの内密のものとされた(時宗の態度から一部の者にはバレバレだったが)。のちに父・時頼からこの決闘のこと(決闘の結果ではなく、なぜこの決闘を行ったのか)を訊かれ、時宗は「他の者にはかかわりのないこと」と答えた。が、これにより時宗と時輔の順位をはっきりと付けておくことで2人の諍いを未然に防ごうとしていた時頼の怒りに触れてしまう。時宗はそんな父にこう切り替えす。
(この小笠懸対決シーンから時宗世代の人物は本役に交代している。)
「某は、某は父上の人形ではござらん!某はこの手で家督を奪い取るために、果し合いを行いました!」
「父上に与えられた道を歩むのでは、この鎌倉を背負う覚悟が決まりませぬ!兄上との勝負から逃げたままでは、政など握れません!」
その言葉を受けた時頼は時宗に政を握らせるために自らと交代させる形で幕政に参加させ、反得宗側が画策していた征夷大将軍・宗尊親王の上洛を「くだらない上洛とやらに金と民をつぎ込む余裕なぞない」としてこれを阻止することを命じる。そして時宗は初めての評定の場で上洛を阻止することに成功する。
それからしばらくののち、時頼が何者かに毒を盛られて死去。時宗は時頼より『時宗にだけ伝える遺言』として長時と時輔を殺すように命じられる。その一方で時宗も反得宗側の面々より命を狙われていた。
※イラストはこのシーンをベースに描かれた中の人ネタです。
(当の時宗は鎌倉の謝国明の見世で本来は時頼に振る舞われるはずだった大陸伝来の葡萄酒をがぶ飲みして泥酔し、時輔に介抱されていた)
時宗は自ら率先して殺そうとはしなかったが、幕府の要人たちに詰め寄られて『長時を殺せ』との遺言を彼らに明かす。それを受けた得宗家側のとある人物により長時は刺客を送られて暗殺。時頼の遺言が本当に実行されたことにより、時宗は時輔の身を案じて時輔の館へと早馬を走らせる。だが、この行動により時輔は時頼の遺言を悟ってしまう。時輔を殺したくはないものの、時輔がいては政ができないと嘆く時宗は自らの執権就任辞退と引き換えに時輔を六波羅に追放することで決着をつけた。
「今の兄上はまことの兄上ではござらぬ!恨み解ける日まで、六波羅に行っていただく!その代わり、某も執権の職辞退いたしまする!」
このことにより一族の長老・政村が執権に就任。14歳の時宗は連署となり、宗尊親王を京に送り返して親王の子・惟康王へのすげ替えを行った。そしてクビライの影が迫る中、18歳となった時宗は幕府第8代執権に就任する。
時輔との『ロミオとジュリエット』のようにすれ違う関係、幕府内外の者による様々な陰謀、蒙古の脅威に苦悩しながらも鎌倉幕府、北条一族、ひいては日本を引っ張る執権として大きく成長していく。政村からはそんな彼の行動(特に時輔関連)を「甘い」とたびたび指摘されており、長時の子・義宗、実時の子・顕時、同母弟・宗政といった一族の若手衆と御内人・平頼綱の意見も聞こうと彼らを集めた時も「評定をないがしろにしている」と説教を受けた。蒙古への対応も「見下されずに誇りを持って国を開きたい」との方針から返書をしなかった。
そんな彼の転機は蒙古からの国書が届き、日本国内が混乱する中で誕生した嫡男・幸寿丸(貞時)が代々反得宗を貫く名越流北条氏兄弟の弟・教時(及びその姉・桔梗)に襲われたことをきっかけに起きた二月騒動。妻子を危険な目に遭わされ、御内人を数人死傷させられたこの件に怒った時宗は挙兵し、名越兄弟を討ち取る。
「これまで謀反を防ぐべく努めてまいったが、刃は振り下ろされてしまった。振り下ろされた刃は太刀で受け止めねばならん!必ず討ち取るのじゃ!」
さらに名越えの館で桔梗を捕えた時宗は彼女に尋問し、襲撃事件の首謀者を訊きだす。そこで桔梗から告げられた首謀者こそ、時輔だった。『時輔の継母』と称する桔梗は時輔にも嫡男が生まれ、さらに時輔が朝廷の使いとして博多に赴いたことを明かす。
時宗は悩みに悩んだ末に早世した叔父に代わり六波羅探題北方となった義宗に時輔の討伐を命じる。
(イラストは時輔討伐を命じる直前のシーン。この時の時輔は幻影である。)
屋敷を幕府軍に襲撃され、時輔は燃え盛る炎の中に消えた。時輔の遺髪を義宗から、遺書を時輔の家臣・服部から受け取った時宗は時輔の謀反が濡れ衣だと知らされる。時宗は館を抜け出し、浜辺で生涯忘れられないくらいに激しく泣き崩れた。だが、これにより時宗は執権としてさらに大きく成長し、それまでの青臭く弱弱しい雰囲気からガラリと変わって男らしくなる。それは流罪に処され、時宗が時輔を討伐(実は生存していたことがのちに判明する)したことを「嬉しい」と嘲笑う桔梗に「儂の国を思う気持ち、そなたの恨みに決して負けん。」と堂々と言い放つほど。それと同時に文永の役後、降伏を促すために送られた蒙古の使者を2度に渡り斬首に処すよう命じるなど非情な一面を見せるようになる。また、時輔の妻・祥子を死なせてしまった(夫の仇を討つために時宗に斬りかかろうとして頼綱に返り討ちにされた)贖罪として時輔夫妻の子2人を引き取る。ただ自らの首と引き換えに蒙古軍の殺戮を止めようとしたり(このあと「そなたに生きてほしいんじゃあ!」と文を破り捨てた安達泰盛と殴り合いの喧嘩になり、義政と時広に止められている)、文永の役後に息子3人を文永の役で亡くした佐志房の怒りに圧倒されて「(木刀で)打ってくれ、佐志殿!」と叫ぶなど弱さが出てしまうシーンは相変わらず多く、根本的な性格は最終話まで基本的に変わっていない。ちなみに上記の2つのタイマンシーンにおいて時宗は2人に立烏帽子を吹っ飛ばされており、最終的には2人の情熱の前に圧倒されて涙を見せている。
蒙古との戦を間近に控えた日の夜に執権館で突然倒れて以降、評定の場で突然発作を起こす(第40話)など時宗は体調に不安を覚えるようになる。時広から『いい薬師』として宋から来た僧侶・無学祖元を紹介された時宗は、その祖元より余命5年を言い渡される。この時の時宗はまだ25歳であり、自らの残酷な運命を知ったショックで泣き崩れてしまう。だが、時宗はこれを機に自分の命があるうちに蒙古との戦を終わらせ、貞時に安らかな国を引き継がせたいとの思いを強め、これまで以上に対蒙古政策を推し進めるようになる。
この病は最終話で時宗が隠退するまで伏せられ、隠退後にその事を泰盛から尋ねられた時宗は「最後まで戦の先頭に立ちたかった」と答えている。
第42話で一族の扇の要・実時が病により六浦に隠退し、その後死去。翌第43話で頼綱と泰盛が対立を深め、その板挟みになった義宗が自害を遂げる。さらに連署の義政が出家するなど時宗を支える人々が相次いで退場し、時宗は「この国を護ると心に決めて以来、親しき人々を失い、信義厚き家臣を失い、己の中にある人の心さえも失いかけている気がする」と思い悩むようになる。時宗は唯一「心穏やかに話ができる」相手である祖元にその事を打ち明け、煩悩を捨てて己が道を進むように喝を入れられる(『莫煩悩』の逸話)。
そんな中、2度目の蒙古襲来『弘安の役』が勃発。時宗は指揮官として手腕を発揮する一方で幕府の方針を巡って鎌倉の御家人たちと対立し、特に身内で時頼の代から幕府に尽くしてきた泰盛とは「儂を斬れ」と言われるほどまでに険悪な仲になる。そして博多に上陸した嵐による強風が鎌倉にも吹き荒れる中、泰盛は時宗と刺し違える覚悟でひとり執権館へと向かう。そこで泰盛を逆に討とうと郎党数人とともに現れた頼綱との壮大な斬り合いが起きる。執権館でその知らせを受けた時宗は馬にも乗らずにとても病の身であるとは思えないほどの駆け足で2人のもとへ駆けつけ、2人の斬り合いを渾身の一射で止める。
「今、宗政達は九州で蒙古と戦うておるのじゃ!ここで命を奪い合うてはならん!」
だがその無理が祟ったのか、時宗は2人を一喝した直後に発作を起こして倒れてしまう。この時は嵐が過ぎ去ったと同時に意識を取り戻し、外へ出歩ける程度まで回復している。だが病は確実に時宗の身体を蝕んでいき、死期を悟った時宗は円覚寺を建立後に隠退を決意して離れに移る。そして自らがやり残したことを正室・祝子の手助けを受けて実行していく。
まず、かねてより対立していた泰盛と頼綱を時宗のもとへ呼び「二度と諍いを起こさない」ことを2人に誓わせた(1年後に破られるが)。
次に二月騒動がきっかけで出家し一時期は口も聞かないほどに対立していた涼子と時宗を和解し、貞時と時輔の嫡男・時利へ「人を殺すな」と遺言する(こちらも後に破られる)。
だが、時宗が本当に逢いたい人には逢えないまま(祝子は謝太郎にその人物を探してもらえるよう依頼をしている)時宗はどんどんと衰弱していき、遂には昏睡状態に陥ってしまう。
そんな時宗の34年の生涯は蒙古の脅威(時宗は「クビライ・カアンに魅入られたような一生」と評した)と北条得宗家の嫡男として生まれたがゆえの陰謀と運命に晒された生涯であり、「何もかもがこれから」の未完の人生だった。
時宗は生死の境を彷徨う中、兄と過ごした幼き頃の日々を脳裏に浮かべる。そして懐かしい声に応えるように目を覚ますと、そこには時輔がいた。時輔は戦死した宗政の遺骨とともに鎌倉に戻ってきたのだ。起き上がる事すらできないほどに衰弱した時宗は宗政の遺品である眼帯を時輔の手を借りて掴み取り、祈るように握りしめる。そして時輔は執権として働き続けた時宗をねぎらった。時宗は民の誇りを護ることが出来、最後の最後に兄と再会することができたと喜ぶ。だが時輔が佐志房の娘・桐子にその言葉を伝えることを時宗に話したその時、それまで死を受け入れるような態度だった時宗から生への未練の気持ちが溢れ出てきてしまう。溢れ出る気持ちが抑えきれなくなった時宗は、時輔にその無念の思いを全て吐き出した。
「休んだら最後・・・もう、目を開けることがございません!兄上、儂は死にとうござらぬ!まだまだ、やりたい事がござる!逢いたい人がおる!行きたいところがござる!何もかも!何もかもがこれからなのでござる!褒美もいらぬ!休みもいらぬ!生きたい、生きとうござる!」
時輔は時宗の無念を全て受け止め、静かに抱きしめる。
「兄上、大陸へ連れて行ってくだされ。」
「ただ、一人の男として・・・かの大地を・・・馬で走ってみたかった。」
「大陸では・・・兄上のこの腕(二月騒動で動かなくなった左腕)も動くのでござろうか・・・。また、弓を競い合うことが出来るのでしょうか・・・。」
最期は時輔と祝子に看取られ、時宗は静かにこの世を去った。蒙古から日本を護るためにすべてを捧げ、未完の生涯を駆け抜けていった男の亡骸には一筋の涙が流れていた。
彼の死後、謝国明は「時宗殿は天から遣わされた様な方であった」と評している。また、クビライからは「一度逢ってみたい男だった」と言われている。
余談
原作小説『時宗』では最期のシーンは描かれておらず、時輔は時宗が亡くなってからその事を知らされた。