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宗谷(船)の編集履歴2017/01/12 06:09:59 版
編集者:勿茂
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宗谷(船)

そうや

「宗谷」はソ連からの発注で商船として建造され、数奇な経歴をたどった。一般には南極観測船としての活躍が知られ、笹川良一が「不可能を可能にした強運と奇跡の船」と称えた。

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一般に南極観測船として良く知られている。

海軍時代は「雑用運送艦」で、砕氷任務もこなしていたが南洋での任務も多く、類別は砕氷艦ではなかった。

巡視船時代が長く海上保安庁を代表する船として扱われていた。

概要

1938年進水・竣工。名前は「宗谷海峡」から。

第二次世界大戦中は日本海軍、戦後は主に海上保安庁に所属。「宗谷」の名を冠する日本海軍の艦船として2代目。初代は日露戦争時に鹵獲した帝政ロシアの防護巡洋艦ヴァリャーグである。(wikipedia:宗谷_(防護巡洋艦)

海上保安庁の船としては初代(巡視船としての船番号はPL107)。

現在は東京港で海上に浮かべて繋留し保存され、博物館船として公開されている。

鉄道省の稚泊連絡船「宗谷丸」(後国鉄青函連絡船)とは別の船である(宗谷丸については「幸運船」の記事を参照)。

ソビエト連邦向けの商船として建造されながら、特務艦灯台補給船、南極観測船、巡視船として運用され、昭和史の節目の多くに関わった。

巡視船任務を後継のPLH01「そうや」に引き継いだ後も船籍を残しており、現存する唯一の旧日本海軍艦船(戦艦三笠は岸壁に埋められており建造物扱い。氷川丸は徴用船であり海軍に在籍していたわけではない)、現存する最古の巡視船である。

南極観測船時代は大変人気があり、後世TVアニメ「宗谷物語」が制作され、春日八郎がシングル「さよなら宗谷」をリリースした。

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生い立ち

1936年9月18日、川南工業はソビエト連邦通商代表部から3隻の耐氷型貨物船の発注を受けた。

1936年12月7日、「砕氷型貨物船第107番船」が長崎県川南工業香焼島造船所にて起工。

1938年2月16日、「砕氷型貨物船第107番船」は「ボロチャエベツ」として進水。物価の上昇などの影響のため工事は遅れに遅れ、起工は3隻受注の内2番目にも関わらず、進水は最後となった。

3隻の引き渡しに伴い、ソ連側はロイド船級協会の規格に沿った性能を3隻に要求し、一番船ボルシェビキをロイド船級協会極東主任検査官立会いのもとで公試運転したところ、性能不十分で不合格と判断された。

建造中はソ連から派遣された技師に厳しく監視されていたにもかかわらず、なぜこんな出来になってしまったのかといえば、造船所自体が再開して間もない上に、そもそも工員の半分が「元ガラス工」、要するに船作りに関しては素人の集団が作ったからなのかもしれない。なお、1938年7月にはロイド船級1A耐氷型に合格した。

起工時進水時ロシア名意味就役時の名前  
106番船ボルシェビキ共産党天領丸1945年5月29日、米潜水艦「スターレット」の攻撃により宗谷海峡で沈没
107番船ボロチャエベツボロチャエフの戦友地領丸(宗谷)現存
108番船コムソモーレツ共産主義青年同盟民領丸1944年2月14日、米潜水艦「フラッシャー」の攻撃によりベルデ海峡で沈没

※「ボロチャエフ」はロシア内戦で赤軍と白軍の戦闘があった場所。

3隻には最新鋭のイギリスソナーが装備されていた事もあり、砕氷艦「大泊」の後続を建造するまでの繋ぎとして日本海軍の興味を引き、川南工業との売却交渉に入る事となる。

引き渡しが中止となり違約金の支払いを求めるソ連との裁判は、1941年に外交決着した。

1938年6月10日、「ボロチャエベツ」は日本の商船「地領丸」として竣工し、川南工業から日清汽船、栗林商船、辰南商船にチャーターされ本土と中国、朝鮮、千島列島などを結ぶ航路で輸送業務に就く。

1939年、川南工業と辰馬汽船が共同設立した辰南商船に移籍。11月、海軍への売却が正式に決まった。

この間日本の戦略が南方対米重視となった事もあり、1940年2月20日、姉妹船の内「地領丸」のみが海軍へ売却された。

「地領丸」は「宗谷」の名が与えられ、1940年6月4日特務艦として改装工事完了。測量・輸送任務につく。

陸海軍に徴傭された商船は多く、特設艦船として改造された船も少なくないが、正式に軍籍に編入された船は「宗谷」だけである。

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特務艦

海軍時代は様々な場所へ配属され、紀元二千六百年特別観艦式、南方作戦ミッドウェー海戦第一次ソロモン海戦などに参加。艦種類別は「雑用運送艦(砕氷型)」で、測量、威力偵察、気象・海象観測、掃海、輸送、上陸支援、砕氷など多岐にわたる任務に従事した。

「宗谷」は他の特務艦や、徴用船がことごとく沈む中、戦後まで生き残った強運艦として有名である。

軍籍に入った「宗谷」は、艦艇での軍事行動には欠かせない海図を作成するために様々な海を測量して周り、現在の海図にも「宗谷」が測量したことを示す「SOYA」と名付けられた礁が多く存在する。

商船改造の軍艦ではあるが、歴代艦長は大佐もしくは中佐クラスで、駆逐艦などより艦内の設備は豪華だった。

商船改造の特務艦のため「こんなかっこ悪い船に乗るのか?」と落胆する兵士も多かったが、「宗谷」の運の良さがわかってくると「乗っている事が最大の幸福に思えてきた」と多くの乗組員が語っている。

「宗谷」の巡航速度は8.5ノット(時速約16km/h)。最高速も12ノット(時速約22km/h)と船足が遅かった。輸送船よりも遅いので艦隊行動が出来ず、単艦で先に出港していながら僚艦に途中で追い抜かれるのは「宗谷」の恒例であった。また、足の遅さは釣りには最適だったようで、航海中に楽しむ乗組員も多かった。

ここまで足が遅いにもかかわらず、なかなか攻撃が当たらなかったのは砕氷船ゆえの特殊な形状の艦首が派手な波飛沫を生み出し、これが敵に速度を誤認させたのではないかと言われている。

対潜戦闘には欠かせない爆雷を「宗谷」も積んでいたが、爆雷投射機がないので甲板から足で蹴り落としていた。爆雷が水中を沈降して規定深度で爆発するまでの間に安全圏まで逃げられないので、爆雷には水中でゆっくり落ちるように落下傘がついていた。

宗谷には現在も特務艦時代の戦友会である「軍艦宗谷会」が存在し、日本で唯一船が現存している戦友会でもある。

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引揚船「宗谷丸」(S119)

1945年8月30日にアメリカ軍に接収されたが、10月1日にGHQから大蔵省の財産として返還され、第二復員省所属の特別輸送艦(船舶運営会所属の引揚船)「宗谷丸」としてトラック諸島、マリアナ諸島、台湾ベトナムのサイゴン、葫蘆島、樺太からの引揚輸送を担い、19,000人以上を舞鶴、北海道へと運んだ。

1946年3月23日台湾の高雄からの引揚者輸送中、船内で女児が誕生。名付け親になった船長は「宗谷丸」の一字をとって宗子(もとこ)と名付けた。

宗子さんは「宗谷」が南極観測船として改造を受けた後にテレビ番組で「宗谷丸」時代の乗組員との再開を果たしており、1978年の解役式にも参加している。

特別輸送艦「宗谷丸」は国鉄連絡船の「宗谷丸」と名前がかぶってしまい、一部の資料ではどちらの船を示すのかわからなくなっている。なので、「宗谷」船内で生まれた宗子さんは2人いる可能性もある。

朝鮮半島引き上げの際にも船内で出産があった。同時期、国鉄の「宗谷丸」は連絡船に復帰していたので、これは特別輸送艦「宗谷丸」であった可能性が高い。

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灯台補給船「宗谷」LL01

1948年5月1日、運輸省の外局として水路局、燈台局、保安局からなる海上保安庁が発足。

1948年11月の引揚任務終了後、「宗谷丸」は真岡 - 函館間の輸送業務に従事したが、1949年8月1日、正式に帰還業務を解かれた。

8月13日、海上保安庁の係官に使用可能と判断された「宗谷丸」は水路測量船に内定した。

その頃、海上保安庁燈台局は灯台補給船として使用していた第十八日正丸を船主に返還することになり、代船として特別輸送艦「宗谷丸」と国鉄連絡船「宗谷丸」が候補に上がった。測量艇のデリックを備えていた事から特別輸送艦「宗谷丸」に決定し、この際、混乱を避けるため「宗谷」に再改名した。

11月に東京港竹芝桟橋沖に回航され、12月12日付で海上保安庁へ移籍した。

当時、「宗谷」は海上保安庁の保有する最大の船だった。

1950年4月1日、石川島重工業での改装工事を終え、第7代目灯台補給船LL01「宗谷」となった。船橋の構造が現在の物に近い形になり、煙突がやや長くなっている。

1952年、船名を平仮名表記の「そうや」とした。

灯台補給船とは、岬の先端や離島といった交通困難地に立つ灯台に対し、年に1回発電機の燃料や灯台守の生活必需品を海上から補給する任にあたるものである。

当時全国には461基の灯台があり、このうち60数基が海上補給を必要とするものであった。

「宗谷」を建造した川南工業は戦後の造船需要に対応できず、1950年に破産、1955年に倒産した。本拠とした香焼島造船所は三菱重工へ売却され、三菱重工長崎造船所香焼工場となった。

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巡視船「宗谷」PL107

南極観測船への改造

日本は朝日新聞記者矢田喜美雄の発案により、日本学術会議の協賛を得て、1957年7月1日から1958年12月31日に開催される国際地球観測年(IGY)にあわせて南極観測を行う事になり、1955年7月に開催された第1回南極会議に、文書で南極観測参加の意志を伝えた。

当初は参加に反対する声もあったが、米ソが賛成する形で参加が認められ、11月に鳩山内閣が南極観測への正式参加を閣議決定した。

南極観測船の候補としては、国鉄の連絡船「宗谷丸」が当時国内で最も高い砕氷能力を持っていたが、大型であるがゆえに改造費が増大する事が予想され、国鉄との間の金銭的な決着もつかなかったため、海上保安庁の灯台補給船「宗谷」の使用が決定された。

選考理由の一つには、戦時中の「宗谷」の運の良さもあった。

日本が担当する観測地域は、プリンスハラルド海岸一帯で過去に欧米各国が上陸を目指して接近するもすべて失敗、当時のアメリカ海軍が上陸不可能と判断し「接近不可能」とした地で、第4代南極観測船「しらせ(2代目)」が昭和基地への接岸に失敗した事もあった。

11月24日より三菱日本重工横浜造船所で総点検が実施された。

12月24日に灯台補給船としての解任式が行われ、海上保安庁灯台部の土井部長が「灯台部として宗谷と別れるのは忍びがたいが、国民に少しでも明るい希望を与えることができるなら、誇りを持って宗谷を南極観測船にご用立てしようではありませんか」と挨拶し、「宗谷」に別れを告げた。

同日をもって巡視船(PL107)へ種別変更された。

1956年3月12日に日本鋼管浅野船渠で南極観測船への改造工事に着手し、10月17日に竣工。浅野船渠(1995年閉鎖)は砕氷船建造のノウハウがあったことから、「宗谷」後継の「ふじ」「そうや」はいずれもここで建造されている。「宗谷」がトラック島空襲から生還後に修理を受けた場所でもあった。

改造のための設計は戦艦大和を設計した技師の一人、牧野茂が担当した。

「宗谷」は原型を留めぬほどの改造を受け、砕氷能力は30cmから1mに引き上げられ、最新の設備が積み込まれた。

この改造工事で取り外された1軸スクリュープロペラは兵庫県の海技大学校に展示されている。

この改造で船首に書かれた「宗谷」という船名の書体は海上保安庁規定の物から、当時の海上保安庁の長官が書いた船名を元にした書体に変更されている。海上保安庁で長官の書いた文字が船名になるのは、現在まで「宗谷」を含め2隻のみである。

宗谷、南極へ

1956年11月8日、宗谷は第1次南極観測隊員53名、「宗谷」の乗組員77名、樺太22頭(オス犬20頭・メス犬2頭)、1匹、カナリア2羽を乗せ、1万人以上に見送られ、東京港晴海埠頭から出発した。猫は幸運をもたらすとされる三毛猫のオスであった。南極へ向かう途中で「タケシ」と命名され第一次越冬隊に参加後、日本へ無事帰国した後に行方不明となっている。

11月15、16日にフィリピン西方で台風19、20号に遭遇。横揺れ38度・縦揺れ20度にも達し、「宗谷はえらく揺れる船」と評判になり、搭載していた水上機も破損した。これは「氷を割るのに邪魔」という理由でビルジキール(横揺れ抑制のため船底両側の湾曲部にひれ状に長く突出させて取付ける板)を取り払ってしまったのが原因だった。

激しい揺れにより不安に陥った隊員達は「戦時中宗谷が沈まなかったのは艦内の宗谷神社のおかげ」とアドバイスされた事を思い出し、戦後取り払っていた艦内神社が艦橋に再び鎮座する事になる。

第一次南極観測では、東京水産大学の練習船「海鷹丸」(2代目)が随伴船として共に南極海へと向かい、「宗谷」の行動をサポートした。

1957年1月24日、「宗谷」は南緯69度東経39度の地点に接岸に成功し、1月29日観測隊はオングル島に公式上陸してここを昭和基地と命名した。

帰路、厚い氷に閉じこめられるが、「海鷹丸」の誘導で救援に到着したソ連の砕氷艦「オビ号」に救出され、「オビ号」からは「海鷹丸」宛に「学生の参加に敬意を表する」旨の電報が届けられた。

3月4日、日本への帰還中、ケープタウン沖の暴風圏で「宗谷」は最高片舷62度に及ぶ横揺れを記録している。

第二次南極観測は第一次の反省から出港を1ヶ月繰り上げたものの、南極の分厚い氷に阻まれ、ダイナマイトによる発破を繰り返しても航路を切り開けず昭和基地への接近に失敗する。

「宗谷」のスクリュープロペラの1翼が根本から折損、その後、自力で氷海を脱出しアメリカ海軍の砕氷艦「バートン・アイランド」の支援を受け、昭和基地へ再接近を試み水上機を使い越冬隊を救助するも、15頭の橇犬は放棄された。

wikipedia:タロとジロを参照)

第三次南極観測は第二次の反省から直接接岸による昭和基地への物資輸送を諦め、大型のヘリコプターを用いた航空輸送をメインとする事になった。

「宗谷」は飛行甲板を増設し、排水量2700トン弱の船体にヘリコプター4機と水上機1機を積み込むミニ空母のような姿になった。

第四次南極観測では、第一次観測で「宗谷」の救助に当たった「オビ号」との共同観測となった。

「宗谷」は毎回修理・改装を繰り返しながら6回の観測任務を務め上げ、1962年4月17日南極観測終了により南極観測船としての任務を終える。

1965年の南極観測再開に伴い、南極観測船任務は後継の「ふじ」に引き継がれた。

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巡視船宗谷

南極観測船としての任務を終えた「宗谷」は、伊勢湾で開催された観閲式に参加。他の巡視船を従え運輸大臣・海上保安庁長官を乗せ、海上保安庁の事実上の旗艦としての雄姿を披露した。

通常の巡視船としての任務に就くことになった「宗谷」は、1962年6月15日、日本鋼管浅野船渠に入渠、観測機器や航空機関係の重装備を撤去した。

8月1日に改装工事を終えた「宗谷」は、関東地方を管轄区域とする第三管区海上保安本部に着任した。

巡視船としての「宗谷」の任務は、海洋調査、漁業監視、救難、医療支援、流氷速報、災害救援など多岐にわたる。さらには海上保安官候補生を乗せる実習船として長距離練習航海に出ることもあった。

宗谷の最初の任務は、三宅島の雄山噴火で舘山に疎開していた児童・学童を帰還させることで、元南極観測船に乗れると子供達は大喜びだったという。

1963年4月1日、北海道を管轄地域とする第一管区海上保安本部に移籍した。

1975年8月対馬丸海上慰霊祭及び沖縄国際海洋博覧会に派遣。

1978年7月3日、「宗谷」の解役が決まり、8月3日から9月3日にかけ全国14の港を巡る「サヨナラ航海」を行い、10月2日竹芝桟橋にて解役式が催され退役。解役式には海上保安庁長官も出席した(現在のところ「宗谷」のみ)。

「宗谷」は15年間で海難救助出動350件以上、救助した船125隻、1000名以上の救助実績を揚げた。次世代砕氷巡視船設計のためにベル212ヘリコプターの離着船実験や砕氷実験などが行われた。

晩年は維持費節約のためメンテナンスが疎かとなった結果、船長室での雨漏りやレーダーのブラックアウト、操舵輪が外れるなどの問題が起きた。

「宗谷」退役に伴い、ヘリコプター搭載巡視船が2年計画で建造され、砕氷巡視船「そうや」(PLH01)が1978年11月に就役した。海上保安庁で「宗谷」・「そうや」は、「初代宗谷」・「2代目宗谷」と呼ばれて区別された。

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保存船として

1979年、「宗谷」は浅野ドッグにて南極観測船時代のアラートオレンジに塗り直し、4月中旬に東京お台場の船の科学館前面海域に移動した。

4月いっぱいで船籍を抹消し博物館船(建築物)として船の科学館で一般公開を開始する予定だったが、不特定多数の見学者を迎えるには建築基準法の適用を受けなければならないという判断が下され建築基準法に適用した船内の改装が求められたが、交渉の結果、船籍を抹消せず維持したままであれば甲板上だけの公開が暫定的に認められた。

5月1日、甲板上の一般公開が開始された。

進水から41年になる「宗谷」に建築基準法を適用すれば現役時代の面影が無くなってしまうため、宗谷会と南極OB会、船の科学館館長が国に働きかけ、1980年、建築基準法と船舶安全法が改正され、船籍を保有し船舶安全法を満たしていれば船内の公開ができるようになった。

7月20日、一般公開を開始。その後、毎年定期検査及び中間検査を受け、船籍を維持している。

1983年、国内で船を浮かべて展示している企業や団体のネットワーク「日本フローティングシップ協会」(現メンバーは「宗谷」・「氷川丸」・「日本丸」・「海王丸」・「摩周丸」・「ふじ」・「しらせ」)の設立と同時に所属。

1996年、年間見学者約90万人。大規模な修復工事が行われた。

2006年、「宗谷」とタロ、ジロを図案とする南極観測50周年記念切手と記念硬貨が発行される。

南極OB会から初代「しらせ」に「宗谷」の油絵が寄贈された。

8月に見学者670万人突破。

11月8日、「宗谷」南極観測出港の再現が「宗谷」で行われた。

2008年2月16日、宗谷会が中心となり、靖国神社より権宮司を招き誕生70年を祝う古希祭が行われ、特務艦、復員船、灯台補給船、南極観測船、巡視船など様々な時代の「宗谷」に関わった人々が集まった。

(宗谷の古希祭を伝えるTVニュース映像)

7月30日、初代「しらせ」退役。「宗谷」の油絵は南極OB会に返却され、11月、艤装工事中の2代目「しらせ」に寄贈された。

2014年11月、第56次南極観測のために出港する後輩「しらせ」を乗員の家族や見物客たちと共に自身の汽笛と旗旒信号UW(=ご安航を祈る)で見送っている。

係留されている船の科学館がクルーズ客船の埠頭となることが決まり、江東区の青海客船ターミナル横に移される事になる。

2016年1月、「宗谷」の移設工事が開始される。

7月21日、一般公開を一時休止することが発表された。

9月23日、移設完了。自力航行ではないが、「宗谷」が動くのは37年ぶりの事であった。

→ 詳細は「ニコニコ大百科(仮):宗谷(船)」、「wikipedia:宗谷_(船)」へ。

現況

「宗谷」の数奇な運命と他に類を見ない活躍から、笹川良一が「不可能を可能にした強運と奇跡の船」と称えた。平成の世に現存するという事実だけでも、唯一無二の「異能生存艦」と言えよう。

しかし、船齢が70年を越えて老朽化も著しくなっており、保存工事のために募金が募られている。

戦前の原型はほとんど残っていないが、船橋前から船内へ続く短い側舷外通路は建造当時からの形を保っている。

保存船としての「宗谷」は、現在も海上保安庁特殊救難隊の訓練所としても使われている。

→ 詳細は「ニコニコ大百科(仮):宗谷(船)」、「wikipedia:宗谷_(船)」へ。

擬人化イラスト

『昭和基地物語』(福島博/1965年 あかね書房)によると第二次南極観測に向かう途中行われた赤道祭の時に、観測隊員の手によってレーダーを簪に船体色を着物の色に見立てた「宗谷」の擬人化イラストが描かれたという。

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宗谷(船)の編集履歴2017/01/12 06:09:59 版
編集者:勿茂
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