※なお同様に国鉄史上のエポックメーカーとなった気動車についてはこちら→キハ80系
国鉄 80系電車
概要
日本国有鉄道(国鉄)が1949年に新製開始した長距離列車用の電車形式群の総称(正式の系列名ではなく、整理上・趣味上の通称)。
東海道本線東京口の長距離列車を電車化することを目的として設計された。
1950年に登場した2次車以降では正面2枚窓のいわゆる「湘南顔」が採用され、国鉄のみならず国内の私鉄各社でも類似した前面形状の車両が多数ある。
かつて大阪市の交通科学博物館に先頭車と中間電動車の各トップナンバーが静態保存されていたが、閉館に伴い一時別の場所で保存の後、現在は無事京都鉄道博物館に展示されている。だが、一世を風靡した「湘南顔」の車両はすべて解体され現存しない。
功績
それまで電車は都市部の比較的短距離を走る車両と位置付けられていた。
ところが、当時東京駅のホームは既にパンク状態で、客車列車のままではもう一本ホームを作らなければならないという差し迫った課題があり、折り返しにかかる時間が短い電車が採用された。
しかし、当初は反対派の猛烈な抗議があった。それもそのはず、当時の電車は揺れが酷く、居住性で客車列車に敵わなかったと言われていたのである。
結果的にこの車両の成功により、日本は新幹線を頂点とする、世界でも類を見ない電車、気動車王国となった。
また、鉄道車両に鮮やかな色彩を広めたのも80系の功績だった。
従来の鉄道車両といえば黄色が鮮やかな地下鉄1000形は例外としても、濃緑、茶色の1色塗りと言った具合で、明るい色合いと言えば精々マルーン(えんじ色)が関の山。ややお洒落なツートンカラーと言えば、緑や茶色の車体にクリーム色を足すくらいだった。
これは、ブレーキシューが削れた細かいカスが車体に付着して汚らしくなるのをカモフラージュするためのもので、この頃の電車の宿命であった。
80系の場合、流石に汚れが酷い台車に近い部分は濃緑(緑2号)であったが、窓の周りを鮮やかなオレンジ色(黄かん色)に塗り、当時の鉄道車両としては鮮やかな色彩は沿線の特産物に准えて「みかん色の電車」として広く親しまれた。
現在でも、東海道線では伝統的にこの色合いが用いられている。
大まかな構造
それまでの客車に一般的な両デッキ構造の車体に従来の電車の延長線上にある電装品を取り付け、両端の車に運転台をつけて長編成前提の電車に仕立てたものである。
基本的に既存の技術のみを用いており(技術面で冒険はしていない)、使い方に新基軸がある。
ブレーキ構造は例外的に新しいものが2つ入っている。電磁弁を設け応答が早いこと、1両1シリンダのブレーキを台車近傍に1つずつ設け1両2シリンダとしている。
動態保存中、京福電鉄の事故の影響で単行運転が出来なくなった旧型電車も何両かあるが、解決策の一つは技術的にはこの80系のような2シリンダー式への改造である。
乗り心地について
居住性
80系のシートピッチなどは拡大された200番台以降のグループでようやくオハ35系以来のもので、背ずりにモケットのついたスハ42系とほぼ同じである(初期車はオハ31・60系鋼体化改造車とオハ35系の中間に位置する1400mm)。さすがにツリカケ式の旧型電車ゆえ騒音の車内への侵入は客車より大きかった。
振動特性
電車が、というより当時までの日本国鉄の台車の揺れ枕リンクはおしなべて短く、電車だろうが客車だろうが不快な揺れをなかなか解消できない構造が数十年存置された。
ようやく戦後に私鉄や旧満鉄などの流儀も入り、リンクが平均的な長さ(500mm程度)となり、動揺の特性が改善された。動力台車は鉄鋼の入手状況も関連したが一体の鋳物で側梁を作るようになったことも、ヒビリ振動の除去に寄与した。
抜本的な改善点
空調である。客車時代の長大編成列車の泣き所が冬季の暖房だった。
機関車から供給される蒸気による暖房だったため、編成後端では暖房の効きが悪いことがしょっちゅうあり、電化されて機関車が電気機関車になると蒸気の供給元がなくなったため、わざわざ「暖房車」と呼ばれる蒸気ボイラー車を連結したり、直接電気機関車に蒸気ボイラーを搭載したりしなければならないという半ば本末転倒の事態に陥った。
直流電化区間限定の電気暖房もあったが(シート下に対地電圧1500Vのままシーズ線を引き回し;後年の交流電化区間向けの交流1500V仕様(熱源電圧は変圧し200V)とは異なる)、電力事情から全面的普及とはいかなかった(まして機関車の2基のパンタグラフからの集電では、停車中の架線の消耗が無視できない)。
対する80系は各動力車のパンタグラフから個々に熱源分も取っていくので集電量も多寡がしれた。
また夏場も101系登場後旧型車にも扇風機を装備する改造が施されていった。客車列車にも扇風機は装備されたが、車軸発電機を使ってバッテリー経由で給電していたため、長時間停車などでしばしば止まってしまう弱点があるのに対し、電車用のそれは基本的に止まらないという強みをもつ。
また特急の二等車・一等車・食堂車などは冷房装置を搭載していたが、その為の発電セットを搭載し、結果編成重量をさらに重くして客車の不利を助長する結果になった。
乗客の反応
当初こそトラブルが多発して「遭難電車」などと揶揄されたが、初期トラブルが克服されると、むしろ利用者は好んで電車列車に乗るようになった。静粛性よりもその他の要件と、なにより速達性が尊ばれたのである。
また、従来の客車列車と同じく3等車の他に緑の帯が巻かれた2等車が連結されていた。これは、全てモーターの騒音が無い付随車で、2等車の乗客にとってはそれまでの客車と比較して騒音はほぼ同等、暖房などの他の接客設備はグレードアップし、目的地へはより早く着くようになった。
80系最後の定期優等列車運用となった急行「佐渡」では、すでに165系の新製配置までのつなぎ、という褪色間隠せない時期だったにもかかわらず、客車利用の「佐渡」より80系の「佐渡」の方が利用率が高かった。
反対派は誰だった?
先ず、横槍を入れたのは、終戦直後の日本(と国鉄)を牛耳っていたGHQとその鉄道監督部門であるCTS(Civil Transportation Section=民間運輸局)であった。
GHQで主力を占めていたアメリカの場合、長距離電車は衰退の方向に向かっていたため、その有効性に疑問を呈したのである。
また、この頃は国鉄が何かを「新造」することに対してCTSが難色を示すことが多く、この80系も例外ではなかった。
ただし、80系と同じく同じく戦後急増した旅客需要に応えるために新たに産まれた蒸気機関車C62や60系客車の場合、既存品の改良・改造であるためにさほど酷い問題とはならなかった。とは言え戦後の平和な時代に設計された車両であるにも関わらず、新規設計ではなく「改造」となったのは新造を渋るCTSをどうにか説得した結果の産物であり、実際の現場では非効率的で国鉄にとっても不本意なものである。
ところが、80系の場合は世界的にもあまり前例の無い全く新しいタイプの電車を(戦争によって国土が荒廃状態であるにも関わらず)量産することになったために大きな懸念を抱いていたのである。鉄道業界出身のCTS将校の中には、「(米国製ディーゼル機関車を買わせて)客車列車で運転すれば良い」と端から理解するつもりのないものも居た。電化計画に消極的であったのもそのためである。
そのため、当初は「横須賀線と同じくらいの区間の運転だが、大船で曲がらずにそのまま西進するだけだ」と説得している。「好評に付き折り返し駅がないので・・・」というようなレトリックで運転距離を伸ばせるだけ伸ばし、GHQ/CTSが存在している頃の内に沼津あたりまで走り、既成事実化させたのだった。
国鉄の労働組合員もまた激しく反対した。
長距離客車列車を電車で置き換える→特に折り返し駅での所要人員が減り、人員カットに繋がる。
という理由であった。
だが、結果的に利用者の需要とは真逆を行ったこれらの労働争議は、利用者の国鉄離れを招いたために1970年代後半に破綻し、最終的に1987年の国鉄分割民営化→JR化に至ることになる。
一方、客車列車も近代化すべく初代ブルートレインこと20系客車が投入されるが、皮肉にもそれにふんだんに使われたのは[[101系電車の開発で培われた軽量固定編成電車のノウハウであった。
そしてこれ以降、客車列車の花形は夜]]行列車が中心となった(しかもこのテリトリーすら後に電車に侵食されている)。
大阪市交通局(現・OsakaMetro) 80系電車
大阪市営地下鉄時代に開業した今里筋線用の車両として4両編成17本が製造された。
今里筋線は開業時からホームドアを設置しているため、当時の70系とは違い天井部にもラインカラーのオレンジを配した。