表現の自由
ひょうげんのじゆう
国における表現の自由の違い
民主主義においては、政治上の意思決定は最終的に国民や市民によって行われるが、適切な意思決定をするにはその前提として十分な情報とそれに基づく議論が必要となる。情報を得て議論をするためには表現の自由は必要不可欠な権利であり、いわば表現の自由は民主主義の根幹をなしているとされる。
各国政府
独裁などをとる非民主的とされる国家においては、この自由の制限が大きいとされ、例示すると中華人民共和国においては、政府が各種メディアの検閲を行っており、中国共産党にとって都合の悪い情報へのアクセスが遮断される場合があり、民主国家であるとされるアメリカ合衆国やイギリスなど西側諸国においても、メディアの巨大企業への寡占が進行したため報道の自由などの制約が増えているといわれ、例を挙げると近年における児童ポルノの取り締まり、テロ対策やプライバシーの保護を名目にメディアに対する検閲や表現規制が導入されつつあり、ここに述べる理由により、現代の世界で進んでいる表現規制強化の流れは、単にサブカルチャーの危機に留まらず、民主主義の危機・世界規模での管理社会化の一環であると言えるかもしれない。
日本
一方アメリカ等に比べ表現者のやりたい放題に寛容な雰囲気があるとされる日本においても、一面ではかなり厳格であり、例えば刑法175条でわいせつな表現が規制されているものの、「わいせつの基準」が曖昧であり、さらに諸外国からの同調圧力もあり二次元含めエロ方面などは基準がぶれることがあり、いわば有害図書を認定する各自治体や犯罪を取り締まる警察から「お目こぼし」されているに過ぎず、例えば二次元の性器の規制は昔から存在し、台湾では無修正版が売られているポルノ同人誌でも、日本の即売会では警察からのお達しにより性器の修正が強いられるなど、特にロリ系は自主規制含め厳しく制限されており、「最も性表現に寛容な国」とは言えなくなっており、また今後はTPPに含まれる著作権非親告罪化が適用されることにより表現の自由が大幅に制限されるようになる可能性が存在するとも言われ、国境なき記者団が発表している報道の自由ランキングにおいて、日本はまで12位という世界でも高レベルな言論の自由があったとされるが、東北地方太平洋沖地震発生時における東京電力の一件が発生した2012年以降は順位を落としており、2018年には72位であった( ただしこれは「報道の自爆」の側面も存在する )。
表現の自由と責任
表現の自由とは、リスクなしに好きな表現ができるということではなく、自らの表現には責任が生じるということを忘れてはならず、表現を発表するにあたっては、その表現が批判にさらされることや他人を傷つける可能性が存在することを考慮し、発生した状況に対し責任を負うということを忘れてはならない。
派生概念
この表現の自由から各種自由および権利が派生している。ここではそれらの項目に関して解説を行う。
報道と言論の自由
報道の自由は報道機関がさまざまな表現を使って国民に情報を伝える自由のこと。簡単に説明すると権力者以外が政治への批判や政治家・社会情勢の風刺などを行うことを認めるということであり、言論の自由については当該項目を参照されたし、双方ともに特定秘密保護法による制限が懸念されている。
創作の自由
芸術等の創作的活動に対してもその自由が幅広く認められるべきであるとされており、創作的活動の中には政治的、社会的メッセージを明示的にあるいは暗に示した作品は数多く、芸術自体としても高い評価を受けた作品も少なくない一方、芸術的創作性の希薄なもの、例えば単にわいせつなだけのものや犯罪の手法、あるいは著作権侵害等といったものに対して表現・創作の自由が認められるべきかどうかについては議論の対象となっており、しばしば裁判で争われることがある。
表現の自由をめぐる問題
この自由に関する問題については、pixivユーザーにとって身近なところでは性や暴力の表現等に関するものがあると思われ、少女向けコミックでの性的描写( ティーンズラブ )、児童ポルノ関連などやそれに派生する棲み分けや検索避けなどがあげられ、エログロを描かないのも表現の自由なのにその表現が同調圧力で消されてしまうなど、自由が不自由を生む負の連鎖になっているとされ、一方合法ロリ、セウトなど、法の抜け穴をかいくぐったエログロ表現も多数存在している一方で、童話やギャグ漫画などは狂気を含んでいる為、エログロを付加する意味がないという声もある。
また、2018年3月に出版されたコロコロコミックに掲載されていた漫画「やりすぎ!!!イタズラくん」がモンゴル大使館に抗議されたことで起こった自主回収騒動も、表現の自由を考える上で重大な騒動となった。あくまで形の上では出版元である小学館による「自主回収」ということになっているが、そこに至るまでにあったという日本の外務省からの圧力が問題視されたのだ。
「表現の自由」は、公権力が表現に関して干渉しないという前提の上で成り立っている。故に、前述したような圧力は本来あってはならないことであるのだが、結果として国による事後検閲のような形になってしまった。加えて、小学館への抗議の発端がモンゴル大使館だったことにより、「日本政府が外圧に屈した」という形になってしまったのも、この問題に拍車をかけている。
仮にこの事例が前例として機能してしまった場合、外国の歴史や伝承、民族や宗教などを題材とした表現物は海外からの外圧によって軒並み規制されることにもなりかねない。このようなことは紛れも無く内政干渉であり、「表現の自由」を有する独立した国としてはあってはならないことである。