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テイエムオペラオーの編集履歴

2022-06-13 05:53:27 バージョン

テイエムオペラオー

ていえむおぺらおー

日本中央競馬会(JRA)に所属していた競走馬・種牡馬(1996 - 2018)。主な勝ち鞍は1999年の皐月賞、2000年の天皇賞(春)・宝塚記念・秋古馬三冠(天皇賞(秋)・ジャパンカップ・有馬記念)、2001年の天皇賞(春)。現役時代は古馬以降圧倒的な強さを誇り、特に2000年に年間無敗を達成したことから「世紀末覇王」とも呼ばれた他、獲得賞金世界記録を16年間保持した。2000年のJRA賞年度代表馬、JRA顕彰馬(2004年選出)。

※この記事の馬齢表記には特に断りがない限り、旧表記を用います


誘導

  1. 競走馬(99世代
  2. 1をモチーフとしたウマ娘プリティーダービーに登場するウマ娘。→テイエムオペラオー(ウマ娘)

こちらでは1に関して解説をする。2に関してはリンク先のタグを使用する事を推奨。


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ヒーロー列伝No.48

王者の讃歌。


衝撃のGⅠデビュー。その後のたちとの熱い勝負。

正攻法で、しかも堂々と戦いあうことで、

風格と成長を身につけてきたテイエムオペラオー。

完璧な勝利を重ね、歴史が認める英雄へ――。

王者を讃える歌が、力強く、声高らかに聴こえてくる。


THE_LEGEND

2000年、有馬記念。

勝ち続けると、全ての馬が敵になる。

その馬は、完全に包囲された。

“道は消えた”筈だった。


テイエムオペラオー。

お前は何故走れたのか。


「年間全勝のレジェンド」


その戦いに、人は夢を見る。

さあ、夢を見よう。


名馬の肖像2018年宝塚記念

ただ彼だけが


勝ち続ける。

絶対に負けない。

それがどれほど

困難なことか

ただ彼だけが知る。


重圧に耐え

剣戟を潜り抜け

包囲網を打ち砕いた

その先にある未到の地を

ただ彼だけが知る。


概要

生年月日1996年3月13日
英字表記T.M.Opera O
性別
毛色栗毛
オペラハウス
ワンスウエド
母の父ブラッシンググルーム
競走成績26戦14勝
生涯獲得賞金18億3518万9000円(+特別褒賞金1億円)
没年2018年5月17日(馬齢22)

誕生~デビュー

1996年3月、北海道平取町の杵臼牧場で誕生。

父はキングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークスなどを制したオペラハウス。母ワンスウエド、母の父がブラッシンググルームという血統だった。

この血統は現在では評価されているが、当時は父オペラハウスの2年目産駒ということでまだ種牡馬成績を残していなかった事、日本であまり活躍しないサドラーズウェルズ系の馬だった事もあり、そこまで注目度は高くなかった。

(※後にメイショウサムソンという名馬も生まれるが、それはまだ先の話)

しかし、牧場を訪れた後のオーナー・竹園正繼氏(耐震補強材メーカーの創業社長)は「光輝いて見えた」とこの馬を高く評価した。


その後、セリに出された同馬は竹園氏に購入される。

上記の通り当時は全く注目される馬では無かったので、誰も競る者がおらず購入価格はスタート価格の1000万の安い馬だった。

そんな馬が後に大活躍するのだから、世の中分からない物である。


1998年、竹園氏の幼馴染でもある栗東の岩元市三調教師に託され、入厩。

  • 竹園氏は熱心な競馬ファンだったが、一時期事業に打ち込むため競馬から離れていた。そんな1982年のある日、騎手時代の岩元調教師がバンブーアトラス日本ダービーを勝利し、勝利騎手インタビューを受けていた所をテレビで偶然目撃する。これに非常に驚いた竹園氏は「馬主になって再会しよう」と決意、5年後の1987年に馬主資格を取得したというエピソードがある。それ故に、中央競馬に所属する竹園氏の所有馬は、そのほとんどが岩元厩舎に所属している。

この時に、冠名の「テイエム」と父の名前の「オペラ」、サラブレッドの王になれという願いを込めて「オー」、つなげて「テイエムオペラオー」と名付けられた。


当時岩元厩舎に所属していた和田竜二を鞍上に迎えたオペラオーがデビューしたのは8月、京都競馬場の3歳新馬戦。

単勝オッズ1.5倍の1番人気だったが、1着のクラシックステージに6馬身差ちぎられて完敗。

その後骨折してしまい、長い休養に入る事となった。

4歳時代

復帰したオペラオーはダートの未勝利戦へ向かい、2戦目で5馬身差つけての圧勝。

未勝利を脱し、500万下特別のゆきやなぎ賞も勝利した。


そして、初重賞として彼が挑んだのがGⅢ毎日杯。

このレースは皐月賞の前哨戦に位置付けられており、クラシックを狙う陣営が賞金を加算するために狙ってくる重賞レースである。

そしてこのレースで、オペラオーは2着のタガノブライアンに4馬身差つけて圧勝。

「追加登録料」を支払い、皐月賞へと向かった。


なお、この「追加登録料」とは「クラシック未登録の競走馬でも追加登録料を払えば出走可能とするという競馬制度」である。

かつてクラシックレース登録をしていなかったため、実力・人気共に絶大なオグリキャップがクラシックレースに出走できなかった。世間の批判はJRAの経営判断にも影響を及ぼし、数年後の1992年だがクラシック未登録の競走馬でも追加登録料を払えば出走可能となった。

「追加登録料」は200万円と決して安くはないのだが、かつて制度の壁に泣いたオグリキャップ関係者からも「テイエムオペラオーの皐月賞出走」に働きかけがあったと言われている。


皐月賞

本番の、第59回皐月賞。

クラシック競走だけあり、後の菊花賞馬ナリタトップロードや、父サンデーサイレンスベガという良血馬アドマイヤベガなど、有力馬が集結した。

オペラオーは、単勝オッズ11.1倍の5番人気とあまり人気ではなかった。


しかしレースでは、最後の直線で末脚を爆発させ、オースミブライトをクビ差で制し1着。

クラシック1冠目、皐月賞を見事に制し、GⅠホースとなったのだった。

また、テイエムオペラオーは上述の「追加登録」を初めて優勝に結びつけた馬となった。


しかし、それからオペラオーは勝つ事が出来なくなってしまう。

クラシック2冠をかけ出走した日本ダービーでは、仕掛けが早すぎたのかナリタトップロードアドマイヤベガに差され3着。

秋初戦のGⅡ京都大賞典も3着に敗れる。

クラシック最後の1冠菊花賞では、2番人気に推されるもナリタトップロードを捉えきれず2着。

この結果に竹園氏は激怒、主戦を和田騎手から変えるよう岩元調教師に申し入れるが、和田騎手を一人前の騎手に育てたかった岩元調教師はこれを拒否。最終的に岩元調教師は「どうしても乗り替わるというのなら転厩していただくしかない」と半ば脅迫じみたことを言ってまで説得し、これに竹園氏が折れたことで引き続き和田騎手が主戦を担うこととなった。

  • 一説にはこの際、竹園氏は武豊騎手への騎乗依頼を考えていたらしい。

続くGⅡステイヤーズステークスも、ペインテドブラックにクビ差で敗れ2着。

年末のグランプリ有馬記念も3着に敗れる。

しかし、このレースではサイレンススズカエルコンドルパサーと並び「3強」と称されたグラスワンダー、未だサンデーサイレンス産駒の最高傑作と名高いスペシャルウィークにタイム差なしでゴールインしており、翌年の大躍進を予感させる結果となった。

古馬時代

オペラオーの年明け初戦は、GⅡ京都記念。

このレースでは、4歳時に敗れたナリタトップロードをクビ差で制し1着。

更に天皇賞(春)へのステップレース、GⅡ阪神大賞典も2着のラスカルスズカに2馬身半の差をつけて勝利した。


重賞2連勝を飾り、勢いに乗ったオペラオーは古馬の最高峰を決める戦い、GⅠ天皇賞(春)に出走した。

天皇賞でもラスカルスズカら同期馬に先着し、オペラオーは見事春の盾を手に入れた。


それからはもう、レースに出れば勝つこと勝つ事。

グランプリ宝塚記念に加え、天皇賞(秋)も制して史上3頭目の天皇賞春秋制覇(同一年)。史上初の中央4場GI制覇も達成。1番人気の連敗記録を12で止めた。

ジャパンカップでもステイゴールドが作ったスローペースのおかげもあり当時世界最強と言われていたファンタスティックライト等を退け1着。

1番人気の連敗記録を14で止めた。

そして、年末のグランプリ有馬記念に出走したオペラオー。

当日朝、他馬が暴れている様子に興奮し、壁面に顔を打ち付け鼻血+腫れで片目が塞がるというアクシデントが起こり、レースどころではない状態で出走。

しかもガチガチに多くの馬にマークされて進路が完全に塞がれた。しかし、そんな中でも僅かな隙間をこじ開け抜け出し見事に1着。

実況も観客も最後の直線に入るまで悲鳴をだすような絶望的な展開から1着を毟り取り、見事に春秋グランプリ連覇を果たすと同時に、日本の古馬中長距離GⅠ(古馬5冠)を年間完全制覇した。


人間で言えば大相撲の年6場所完全制覇、テニスの4大大会年間完全制覇くらいの、大記録・大偉業であった。


ここまでで、オペラオーは重賞8連勝、GⅠレース5連勝を記録。

また、JRAはクラシック三冠とは別に、この年から「秋古馬三冠」の特別報奨金制度を設けた。

これは「天皇賞(秋)」「ジャパンカップ」「有馬記念」の3つのGⅠを同一年に制した場合に特別報奨金1億円が贈られるという制度である。

創設初年度であるので、オペラオーはこの制度の初達成馬となり、報奨金1億円を獲得した。

で、当然のように彼は満票で年度代表馬に選出された。

ちなみに、彼の5歳時は文字通りの負け無しである。


そして翌年、オペラオーはGⅡ産経大阪杯に出走。

しかし、この時は大雪のため調整が遅れてしまったためか1番人気に推されながら4着に敗れてしまう。

しかし、次走の天皇賞(春)は1番人気に応え1着であり、天皇賞(春)連覇、秋と合わせて史上初の天皇賞3連覇の快挙を達成した。

この時点で、オペラオーはかの「皇帝」シンボリルドルフに並ぶGⅠ7勝を記録しており、宝塚記念ではGⅠ最多勝利数の記録更新がかかっていた。


            しかし、競馬界のジンクスは恐ろしかった。


宝塚記念で、オペラオーはライバルのメイショウドトウに敗れ2着。

秋初戦のGⅡ京都大賞典は2着入線だったが、1着のステイゴールドが斜行によって失格となり繰り上げ1着という結果であった。

本番の天皇賞(秋)では万能馬アグネスデジタルに敗れ2着。

さらに、ジャパンカップでもジャングルポケットの2着となった。


そして、年末のグランプリ有馬記念へ出走したオペラオー。

GⅠ最多勝利の記録更新を願ってか、単勝オッズ1.8倍の1番人気だった。


ところが、オペラオーはここでなんと5着。

ライバルのメイショウドトウにすら届かない、完敗であった。

そして、オペラオーはこのレースをもって引退し、種牡馬入りする事となった。


2000年が圧巻過ぎるが、その競争成績に於いて掲示板を外すことは一度もなく、引退レースの有馬記念の5着が生涯最低の着順。

この成績は賞金にも大いに影響を与え、生涯獲得賞金はなんと18億3518万9000円。購入価格の約183.5倍である。

この額は当時の世界競馬史上1位の獲得賞金額だった(2017年にアロゲートが更新)。

国内では2017年にキタサンブラックが18億7634万3000円で記録を更新し、2022年2月現在はアーモンドアイ(19億1526万3900円)、キタサンブラックに次ぐ第3位。ただし、秋古馬三冠の褒賞金1億円(当時)を加算するとオペラオーがこの2頭を上回る。


2004年4月26日、JRA顕彰馬に選出されて殿堂入り。

同年6月27日、阪神競馬場では「JRAゴールデンジュビリーキャンペーン」の一環として、宝塚記念の前座となる準メインレース(1000万下、芝1600m)が「テイエムオペラオーメモリアル」と銘打って開催された(勝ち馬マチカネメニモミヨ)。


競走成績

3歳時

3歳新馬 1着

4歳時

4歳未勝利 4着

4歳未勝利 1着

ゆきやなぎ賞 1着

毎日杯(GⅢ) 1着

皐月賞(GⅠ) 1着

東京優駿(GⅠ) 3着

京都大賞典(GⅡ) 3着

菊花賞(GⅠ) 2着

ステイヤーズステークス(GⅡ) 2着

有馬記念(GⅠ) 3着

5歳時

京都記念(GⅡ) 1着

阪神大賞典(GⅡ) 1着

天皇賞(春)(GⅠ) 1着

宝塚記念(GⅠ) 1着

京都大賞典(GⅡ) 1着

天皇賞(秋)(GⅠ) 1着

ジャパンカップ(GⅠ) 1着

有馬記念(GⅠ) 1着

6歳時

大阪杯(GⅡ) 4着

天皇賞(春)(GⅠ) 1着

宝塚記念(GⅠ) 2着

京都大賞典(GⅡ) 1着(ステイゴールド失格により2着入線後繰り上げ)

天皇賞(秋)(GⅠ) 2着

ジャパンカップ(GⅠ) 2着

有馬記念(GⅠ) 5着


引退後の馬生

社台との交渉がうまく行かずシンジケート交渉がポシャってしまい、オペラオーは竹園氏の個人所有種牡馬として繁殖入り。しかし、繁殖成績は芳しくは無い。重賞勝ち馬は全て障害馬であり、中央の平地重賞を勝利した馬は1頭たりとも存在しておらず、GⅠ馬に至っては障害競走ですら出ていない。

元々日本では成績が上がらない血統のサドラーズウェルズ系な事もあり、残念ながら種牡馬としては結果を出すことが出来なかった。


2010年に門別種馬場閉鎖に伴いテイエム牧場日高支場へ、更に半年弱でレックススタッドへ、1年ちょっとで今度は白馬牧場へと居場所を転々とした末、最終的に所在地非公開で種牡馬活動を続行。

2018年5月17日、2頭への種付けを終えた矢先に心臓麻痺で急死した。


余談

評価と人気

牡馬では歴代1位タイのGI7勝、通算獲得賞金は当時歴代1位を記録するなど間違いなく日本競馬史上トップクラスの実績を残しているが、現役当時はあまり人気がある馬ではなかった。

オペラオーはディープインパクトサイレンススズカのような派手な勝ち方はあまりなく、よく言えば手堅い、悪く言えば地味な勝ち方が多い馬であった。この点は強いことは強いがレース展開がつまらないと言われたシンボリルドルフと似ている。加えて一つ上で黄金世代と呼ばれた98世代の人気が高かったこともオペラオーの評価が伸び悩んだことに関係している。

ただ、近年ではオペラオーのように主要レース全てに出走する馬自体が少なくなってきていることからオペラオーの偉業を再評価する声が高まっている。


オペラオーの意外な欠点(?)

JRAの「競走馬総合研究所」が調べたところ、オペラオーは普通のサラブレッドよりもデカくて強い、レースに適した心臓を持っていたという。精神面も強く真面目で、ことレースとなると集中力が高まり、どういう展開でも状況に適応できる器用さも合わせ持っていた。

しかしただ一点。海外遠征の話が出た時、岩元調教師が「この馬は飼い食いが悪いのが心配で…」と心配するくらい、牡馬にしては珍しく食が細かったという。


世紀末覇王

彼は「世紀末覇王」と呼ばれる事もある。

活躍した時期が丁度世紀末だったため、圧倒的な強さと相まってそのような呼び名がついたのだろう。

ところで、彼の名前をよく見ると「テイエムオペラオー」だが・・・確かに世紀末覇王っぽい。


黄金の旅路と共に

京都大賞典くらいしか目立った競り合いはないが、ステイゴールドとは12回にもわたり対戦。何気にメイショウドトウ(9戦)よりも対戦回数が多い。

ファンタスティックライトと対戦した2000年ジャパンカップでは何故か逃げを打ったステイゴールドによりかなりスローなレースとなり、オペラオー勝利の遠因となった(鞍上のデットーリが敗因にスローペースを挙げている)。デットーリとステイゴールドとの因縁はある意味ここから始まったかもしれない。

余談だがデットーリはオペラオーのことを「クレイジーストロング」と評しており、翌年のジャパンカップ(ファンタスティックライトは招待を辞退)の際は「サキーかガリレオでもなければ去年の2頭(オペラオーとドトウ)には敵わない」とまで言っている。またステイゴールドがドバイへ遠征した際、ステイゴールドの戦歴を見た海外の関係者は「このテイエムオペラオーって何者だよ?」とツッコミを入れたという。


オペラオーの涙

引退レースの有馬記念を5着で走り終えた後のこと。原口政也厩務員が戻ってきたオペラオーを労い、人参を差し出したが、オペラオーは何故か食べようとしない。いつもは喜んでかぶりつくのに…と顔を見ると、オペラオーの瞳からは涙が溢れていたという。その光景を見ていたスポーツニッポンの鈴木正記者は「悔しかったんだろう。あと、これが最後とわかっていたんじゃないか」と語っている。


オペラオーと和田竜二

競馬の世界では優秀な馬には優秀な騎手が乗るのが当然なので、馬が好成績を出すと大レース前に騎手が変わったりするような事も珍しくないのだが、テイエムオペラオーは新馬戦から引退まで、まだデビューして3年目の若手騎手・和田竜二が手綱を握り続けた(全戦騎乗)。

これ程の成績を残した馬が成績上位でもない騎手を乗せ続けると言うのは滅多にないことで、和田騎手は「オペラオーにはたくさんの物を貰ったが、あの馬には何も返せなかった。これからは一流の騎手になって、オペラオーに認められるようになりたい。」との言葉を残し、名コンビとして知られていた。

しかし上記のように2018年、テイエムオペラオーが急死する。中央競馬G1で勝ちきれない年が続く中での訃報であったが、なんと同年の第59回宝塚記念をミッキーロケットで制覇、実にオペラオー以来17年ぶりの中央G1制覇だった。

勝利騎手インタビューで、和田は「オペラオーが背中を押してくれた」と語り、7番人気で有りながら大歓声で祝福された。

2018年 第59回宝塚記念


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競馬 競走馬 メイショウドトウ 和田竜二

秋古馬三冠

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