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鉄道車両の形式の一つ。
pixiv上ではほぼ新幹線0系電車に関するイラストに付与されるタグとなっている。
概要
正式名称「東海道・山陽新幹線 0系電車」
1964年10月1日の東海道新幹線開業当初から使用された初代の新幹線電車である。デザインにはセッテベッロの影響が見られる。最後の新製車両は1986年落成で実に22年間にわたり合計3,216両が製造されたが、1970年代後半以降は初期の車両の置換に充てられたため、3,216両すべてが一度に揃ったことはなく、老朽廃車の置き換えに同形式の車両を用いた例は、日本国内においては他に例を見ない。また、「0系」の形式称号は東北・上越新幹線開業に伴う200系新幹線電車のデビューに伴い、従来の東海道・山陽新幹線用車両との区別のためにつけられたもので、それまでは単に「新幹線電車」と呼ばれていた。
0系車両は、製造年度と一部設備の改良により21次車までの0番台、22次~29次車の1000番台、30~38次車の2000番台と、大きく3種類に分けることができる。3000番台、5000番台、7000番台は改造による派生番台。
また、開業間もないころからしきりに編成内、編成間で車両の組み換えが発生したが、これには理由がある。
当初12両編成で登場したが(厳密には6両編成の1次車に中間車の2次車6両を挿入する形を採ったため、開業の時点で編成内の車番が乱れていた)「ひかり」「こだま」の運用分離(こだま編成の1等車を2両から1両に減車)に始まり、それぞれ4両追加して16両化、さらに「ひかり」編成への食堂車ユニット組み込みなどがあげられる。また「こだま」編成では、2両のビュフェ車のうち1両を売店車への差し替える編成替えが進められたが、全編成には及ばなかった。(47編成中7本がビュフェ車2両のまま残った)
その後開業時の1・2次車を置き換える際に、編成内で廃車にする分だけを新車(1000番台)で代替した。その手法で続く3~5次車の置き換えも進められた。
さらに2000番台が登場する頃になると、廃車対象の車両を他編成の廃車対象外車で置き換える動きも出て(当時こだま編成が削減、更に1984年以降12両編成に短縮されて余剰車が発生したこともある)、結果編成内での車両ごとの製造年がまるでバラバラとなってしまった。特に自由席車が多く(指定席販売上の制約が少ない)、新大阪以西への定期運用が無い「こだま」編成ではビュフェ車の両数や組成位置にいくつかのバリエーションが見られた。(さらに一部のこだま編成では、岡山以西の入線に必要な連続強制換気装置が未装備の車が含まれていた)
余談ではあるが、16両全てが新車で揃った編成は
1973年製造のH41~H43編成(ひかり編成、翌年にいずれも7・8号車を新車の食堂車ユニットに差し替え)
1974年製造のH70編成(列国議会同盟(IPU)参加者輸送用特別編成で中間12両がグリーン車、用途終了後組み換え)
1976年製造のN97~99編成(ひかり編成、全車小窓の1000番台)
以上の7編成だけである。
JR移行後は東海、西日本両社の営業政策などにより、数多くのリニューアルや改造工事(と、さらなる編成の組み換え)が繰り返し行われた。
JR西日本では「ウエストひかり」へのグレードアップを筆頭に、短編成化用に先頭車化改造まで行われるなど、大規模な延命・改装が盛んに行なわれた。
「ウエストひかり」としては座席の拡張(横5列配置を4列配置に見直し)や暗室でビデオを上映する「シネマカー」の連結(当初は有料、その後無料化された後も利用率は悪く、しまいには睡眠目的で利用される有様だったため1994年3月末で廃止、また上映は一部の列車のみで実施されていた)やアップグレードされたビュッフェなど、などサービスアップにより当初の6・8両編成から最長12両編成まで編成を再度伸ばすなど好評を博した他、食堂車やビュッフェを子供サロン用に改造した「ファミリーひかり」、本来こだまに使用される編成を用いた「シャトルひかり」の運転など、最終増備車の建造から10年以上経った時点でも西日本区間では第一線で活躍を続けた。
また100系と同様に特高圧回路を設けてパンタグラフを削減することを目的としてNH82編成にケーブルヘッドやパンタグラフカバーの取り付け工事が行われた。一定の効果は認められたが、費用面や工事期間等の面から改造は本格化せず、後に元に戻されてしまった。
なお、パンタグラフカバーについては他の編成を含め順次搭載されている。
財政上新車を大量に導入出来なかったやむを得ぬ事情ではあるものの、これらの工事により2008年に至る長期使用への道筋を造った。
対して、JR東海では「こだま」編成を対象に再度の16両編成化と指定席車への2-2シート導入などが見られたが、100系・300系の大量増備による置き換えが進行して大規模な改装・改造は行われなかった。東海道新幹線では16連固定でも需要が逼迫していたことと、営業最高速度220km/h(1986年以降)の0系がダイヤ上のネックとなっていた為その淘汰が急がれていた。
そして1995年には「ひかり」編成が消滅し、同時に東京発着の「ひかり」運用から離脱。
引退
1999年9月18日のこだま473号での運用をもって、東海道新幹線(JR東海区間)から引退。
ちなみに、JR東海の新幹線車両において定期列車で運用を終了した最初で最後の事例である。(以降、同社の新幹線車両のラストランは全席指定の臨時列車で行われている。)
東海道新幹線区間での引退以降は山陽新幹線(JR西日本)区間のみの運用となるが、「ひかり」への充当もあるなど、2社間ではかなり温度差があった。
一方、山陽新幹線ではJR化後の需給見直しにより、短編成頻発ダイヤに切り替えられていたが、0系が全電動車の為MM'ユニット(2両)単位で長短組成可能であるのに対し、100系は先頭車が動力のない制御車のため(グランドひかり用の3000番台を除く)電動車ユニットの前後関係が逆転しており、単純な編成変更が出来なかった。この為JR西日本では、ウエストひかり用に延命工事が施された0系を残したまま大量の100系が廃車されると言う異例の事態が発生した。(尤も、JR西日本所有の100系は、グランドひかり用3000番台V編成9本とJR東海から購入したG編成7本、V編成短縮改造の種車6編成分18両だけである)
一時期、緊急時用の連結器を使用してウエストひかり用R編成(R51編成)とこだま用R編成(R23編成)を併結した12両編成による運転が行われたこともあった。
新幹線車両による2編成併結営業運転は、JR東日本では日常的に行われているが東海道・山陽新幹線系統では現在のところ唯一である。
しかし「ウエストひかり」と呼ばれるグループもJR発足後にリニューアル工事を受けているとはいえ、車両の老朽化は隠せず、2000年3月改正で700系7000番台「ひかりレールスター」が登場すると翌月までに新大阪発着の「ひかり」運用から撤収。(この「ウエストひかり」廃止により定期「ひかり」運用は消滅、臨時での「ひかり」運用は「ファミリーひかり」の運行が2002年まで行われていたため、同年まで存続)「こだま」のみの運用となり、またその編成も6両・4両まで短縮されるなど、徐々にその活躍の場は狭まっていった。
2008年11月30日限りで定期列車での運用を終え、同年12月14日のさよなら運転をもって完全に引退した。最後まで活躍したのは2000番台から改造された7000番台であった。(最後まで活躍した編成は「ウエストひかり」の運用から離脱後、同列車で使用された編成を再組成したものである)
現在、鉄道博物館(埼玉県さいたま市)、リニア・鉄道館(愛知県名古屋市)、京都鉄道博物館(京都府京都市)と本州のJR三社が運営に関与する各博物館において保存展示されているほか、各地に保存車両がある。また、鉄道創業の地であるイギリスのヨーク国立鉄道博物館にJR西日本から2001年に寄贈された車両が保存展示され、台湾の新幹線とも言われる台湾高速鉄道にもレーザー光線を使用した「光学式建築限界測定車」として1両が事業用車として海を渡った。
余談
メーカー
東海道新幹線開業当初の編成記号は製造メーカーごとに区分されていた。編成も全て同一会社製で揃えてあった。
N:日本車輌 K:汽車製造 R:川崎重工 H:日立製作所 S:近畿車輌 T:東急車輛
これは本来製造メーカーのローマ字イニシャルを冠しようとしたものであるが、「K」で始まる会社が3社もあったため、それらについては汽車を除いた2社について漢字頭文字の英語直訳で代替したものである(川崎→川→River、近畿→近→Short)
ところが増結や編成組み換え等により同じ会社での編成が困難になり、1971年から H:ひかり編成 S・K:こだま編成となっている。
またR編成(6両=RokuryoのR)・Q編成(4両=16両の4分の1=QuarterのQ)など短編成も登場した。
食堂車
1972年の岡山開業や1975年の博多開業により長時間乗車をする乗客が出てくるようになり、食事の対応として1974年から長距離運用の多い「ひかり」に食堂車が組み込まれた。
海側を食事スペース、山側を通路にして間を壁で区切ったが、窓がなく乗客から「富士山が見たい」との声が上がった。そこで1979年以降壁に窓ガラスを設置、山側の景色を楽しみながら食事ができるようになった。これは「マウント富士計画」と呼ばれた。
特別編成
1974年10月には、第61回列国議会同盟日本大会が開催され参加する国会議員のための団体列車が運転された。この際製造中だったH編成用のグリーン車6ユニット12両+先頭車ユニット+一般中間車1ユニット2両のH70編成が組成された。終了後、グリーン車達は正規のH70編成のほか、グリーン車なしで製造された他の編成に組み込まれた。現在においても12両もののグリーン車を連結した編成は存在しない。
強度
1999年、山陽新幹線福岡トンネルでコンクリート片が走行中の0系「ひかり351号」を直撃する事故が発生した。しかし空調設備等があったこと、車体が鋼製であったことが幸いし車体は損傷したものの負傷者は1人も出なかった(これが現在主流のアルミ合金だったら貫通して死者が出ていてもおかしくなかったという)。
特別ラッピング
1998年12月5日から翌年5月5日まで、JR西日本はNINTENDO64のテレビゲーム『バンジョーとカズーイの大冒険』(日本では1998年12月6日発売)とのタイアップを実施。0系の「ファミリーひかり」用編成に専用ラッピングを施し、「バンジョーとカズーイの大冒険号」として山陽新幹線(新大阪駅〜博多駅間)で運行された。
ゲームの販売戦略としても新幹線の営業戦略としても当時としては異例で、同方法を取った最初のケースとなった。
新山口の奇跡
さよなら運転の中でも、「ひかり347号」(サヨナラ→347)は、所謂「赤ひかり」の表示で運転されたが、この列車はただのさよなら運転ではなかった。
通過列車退避とのことで小休止となる。
しかし、そこにやってきたのは最新のN700系ではなかった。
そう、0系だったのだ。
最終日は500系やファンに別れを告げるような汽笛が新山口駅構内にこだました。
最後の最後まで、0系は「夢の超特急」であり続けたのである。
500系もきっと「祖父」のカッコいい姿をしっかり目に焼き付けたことだろう。
自分が300km/h運転ができて、ギネスブックに乗ることができたのも、0系が居たからこそだと。
生涯でたった3回のみの出来事だったけど、0系にとっても、500系にとっても、最高で最大の想い出として残ったことだろう。
なお、0系が引退した10日後、共に日本の復興を支えた戦友も後を追うように引退した。
彼にとっても安らかな旅立ちだったことだろう。
その他の0系および0形
- 千葉都市モノレール0形:通称「URBAN FLYER」。
- 関東鉄道キハ0形
- 横浜高速鉄道Y000系:こどもの国線の車両。⇒Y000系
- 長野電鉄0系:OSカー。引退済み。
- L0系:中央新幹線の車両。今のところ試験車のみが存在。⇒L0系
関連イラスト
関連タグ
100系 200系 300系 500系 700系 N700系 N700S L0系
きかんしゃトーマスおいでよ!未来の発明ショー!:この車両をモデルにした「ケンジ」というキャラクターが登場する。
チャギントン:こちらもこの車両がモデル(但し、当車両以外にもドアの後ろの機器室がある事でイギリス国鉄373型電気機関車もモデルになっている)になった「ココ」という名前のキャラクターが登場している。