注意
本項目は、史実性について不透明な点が多いことに注意。
詳細については後述する。
概要
天正9年2月23日(1581年3月27日)、宣教師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノが織田信長に面会した際に黒人の奴隷を連れていて、始めて見る黒人に興味を持った信長は、褐色肌が墨で塗られたものと思い、家臣に命じてその黒人の肌を洗わせたという。宣教師の説明を受けても理解が難しかった信長だったが、これを機にその黒人を気に入って、宣教師から譲ってもらったという。
年齢はおよそ20代後半で、身長は約182cmと当時としては巨体の力持ち。信長はその黒人を「弥助」と名付けて、小姓としてそばに置いた。片言の日本語が喋れたらしいが、日本の習慣にはなかなか慣れなかったらしい。
天正10年6月2日(1582年6月21日)、明智光秀による謀反「本能寺の変」が起こった際、弥助も信長のそばで奮戦したが、二条御所の織田信忠へこの事態を知らせよと信長から最後の命を受け本能寺を脱出、信忠へと変事を伝えた(このことから、変の発生した時点では若干の意思疎通ができる程度の日本語を身につけていたようである)。その後は二条御所で明智軍と交戦するも捕縛され、家臣達から処分を聞かれた光秀は「動物同然の奴隷で何も知らず日本人でもない」との理由で処刑はせず、「インドの聖堂に置け」との指示で南蛮寺(=教会)に送られ一命を取り留めたという。その後の消息は不明。
この処遇について、現代の感覚では黒人に対する蔑視とも取れるが、比較文化学者の藤田みどりは弥助を憐れんだ光秀が、彼を殺さずに逃がすための方便だったのではないかという解釈を主張しており、また弥助を南蛮寺に送った事からイエズス会との関係を良くしたい光秀の政治的な思惑があったと解釈する意見もある。
また、『イエズス会日本年報』には「ビジタドール(巡察師)が信長に贈った黒奴が、信長の死後世子の邸に赴き、相当長い間戦ってゐたところ、明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差出せと言ったのでこれを渡した」と記されており、長い間戦っていたにもかかわらず家臣に要求されて刀を渡した所から「長い間武器を振り回していたが、光秀の家臣に「怖がらずに刀を渡せ」と説得されて刀を渡した」という説もあり得る。(武器を振り回していた状態を「戦っていた」と認識していた可能性がある)
史実の記録が余りにも少ないからか、日本での知名度はあまりない。しかし日本史上に名を残した数少ない実在のアフリカ人である為か、海外での人気が高い。
後世(特に現代)での扱い
フィクションの作品では本能寺の変を生き延びた珍しい人物であるために、信長の最期を扱った作品にしばしば取り上げられる。本能寺で起きたことを語り伝える役回りが多い(ただ、知名度の低さや本能寺の変後の消息がはっきりしないことから、最初から出てこなかったり、信長を庇って討ち死にする作品も少なくない)。なお本能寺の変から生き延びたのは弥助だけではなく、女性たちは信長に命じられて脱出したほか、武士の一部も生き残っている。
TBSのテレビ番組『日立 世界ふしぎ発見!』では、彼の故郷とされているモザンビークに日本の着物と良く似た「キマウ」という衣装が存在することに注目し、さらに彼の故郷と思われる村に「弥助(ヤスケ)」と語感が似ている「ヤスフェ」という名前の男性が複数人いたことから、彼が故郷へと帰り着き、その際に日本文化を伝えたのではないか、という仮説を紹介した。根拠には乏しいものの歴史ロマンに溢れる説である。
上記の『世界ふしぎ発見!』やNHKで放送された『Black Samurai 信長に仕えたアフリカン侍・弥助』では、龍造寺軍と島津・有馬連合軍が戦った「沖田畷の戦い」で大砲の操作を行ったカフル人がいたとルイス・フロイスの書簡に出ており、それが弥助かも知れないという扱いをしているが、戦国期頃の南蛮文化に詳しい東京大学准教授の岡美穂子氏のブログに曰く、当時のイエズス会の記述の習慣からして、必ずその属性を付記したはずだとしている。外部リンク
また、同番組「Black Samurai~」の終盤で、加藤清正の元にいた「くろぼう」という黒人家臣に妻子がいたとする書簡があり、番組ではこれも弥助かのように匂わせていたが、これに関しても氏は否定し、くろぼうは黒人だが「又大夫」という名前があり(番組ではそう書かれた書簡を映しながら、その名前を言わなかった)、のみならず清正の家臣では無く、清正がマニラへ送ろうとした船の傭船契約での船長だと指摘している。(外部リンク)
記録上に名を残したのは弥助のみだったが、当時の日本に既に複数の黒人(アフリカ人)がいたことは確実であり、それ故、彼等の中に本能寺の変後の弥助の姿を見出したくなるということだろう。
1968年には弥助を主人公にした来栖良夫の児童文学『くろ助』が発行されている。
2017年にアメリカの脚本家マイケル・デ・ルカ氏がこの弥助を主人公にした映画『ブラック・サムライ』の制作を発表。現在撮影中。
弥助問題
記録上だと弥助が信長に仕えていたのは1年程であり、道具持ちをしていたそうだが、これといった武勲や家名(苗字)に関する情報が無い。そもそも珍しいもの好きで有名な信長が気に入ってそばに置いた辺り、戦力として見ていなかった可能性が高い。
そして敵側に殺されもしなかった時点で敵や脅威として認識されなかったと考えられる。
更にその後の消息は不明であり、仮説や考察があるものの確証がない。
しかし「日本史上に名を残した数少ない実在のアフリカ人」「信長に仕えていた黒人」という情報そのものが珍しい事や資料の少なさからか、海外では憶測や願望などによって話が盛りに盛られている。
弥助について問題が顕在化したきっかけがゲーム「アサシンクリードシャドウズ」。弥助を主人公とした本作だが、おかしな日本描写や歴史考証の無さ、さらに極端化したいわゆるポリコレなどが指摘された「シャドウズポリコレ炎上騒動」が話題となっている。そして、最も問題視された点が参考資料にある。
イギリス出身で日本大学准教授のトーマス・ロックリー氏は著書『信長と弥助』を2017年に刊行。欧米人の観点から戦国日本や信長、そして弥助を研究したものとして一時は注目された。ところが、資料が乏しい点から空白部分を自身の想像で埋めてる節があり、にもかかわらず史実扱いで紹介している。さらに同氏の著作でゲームの参考資料となった弥助についての『African Samurai』が『信長と弥助』と言説が異なっており、日本国内向けと海外向けで内容を変えている点も確認された。
それだけでなくロックリー氏は「弥助は武士だった」「日本では黒人奴隷が行われていた」など明らかに史実と違う捏造まで主張がなされている。
しかも、Wikipediaの弥助項目の編集にもロックリー氏が関わってることが判明し、そのためWikipediaを参考にした点の多い本項すらロックリー氏の情報を元に編集されてしまった点がある。
もはやこうなると弥助に関する情報がどこまで史実でロックリー氏による偽史なのか判別が困難な様相となり、へたをすれば藪の中に陥りかねない状況にある。
ただし少なくとも、弥助と呼ばれたアフリカ黒人が信長に仕えていたこと自体は史実であり、その周辺が嘘や創作で塗り固められる動きが問題である点は留意されたい。