概要
ペルーで第54代大統領(在任:1990~2000)を務めた日系ペルー人。
政府公式上は1938年に首都リマで生まれたとされるが、熊本県河内町で生まれたという告発もなされたが真偽は不明。
日本での名:藤森謙也(ふじもり けんや)
ペルー国内においては、テロゲリラへ断固とした強硬姿勢を貫き、新自由主義による経済成長率の進歩からフジモリ政権の功績を評価する声も多い。
その一方で独裁的な政治体制と非人道的な強制不妊政策から「ペルーの独裁者」として否定的な声も少なくない。
2000年に日本に亡命し、辞任表明をした。ペルーの国政選挙に出馬する為に、2005/11月チリに到着した所を拘束され、ペルーに送還。2009/04/07、人権侵害の罪等で禁固25年の判決を受け、2010/01/02に確定した。
彼の思想は「フジモリズム(Fujimorism)」と呼ばれ、新自由主義・反共主義・保守主義・権威主義に特徴付けられる。ファシズムとピノチェトの影響を色濃く受けたイデオロギーとされ、貧困層から支持されている。
支持される背景にはフジモリ政権下における経済成長の実感があるとされ、現在でもペルーに根強い影響を与えており、
アルベルト・フジモリの娘 ケイコ・フジモリはその最大の継承者として2006~2021まで選挙で高い得票率を確立した。
2024年9月11日、娘により癌で死去したことが発表された。
政権の軌跡
1990年の総選挙での勝利を受け、07月28日大統領に就任。毛沢東思想を掲げるセンデロ・ルミノソや、MRTA(トゥパク・アマル革命運動)等の対テロ対策と、ハイパーインフレに対しての経済安定化を実施。
ペルーの南に位置する隣国・チリの指導者ピノチェトに倣って新自由主義で経済改革を行った。
価格統制の撤廃・外国資本の誘致・緊縮財政による過度なインフレの抑制を実行して経済成長を実現したが、格差の拡大も招いたとされる。
1992/04/05には「民主主義を守る為の処置」の下、ナチスを模倣して憲法停止措置(事実上の『クーデター』)を行う。通称・アウトゴルペ。
その直後に秘密警察SIN(国家情報局)を設立(局長はウラジーミル・モンテシノス。彼は陰の権力者としてフジモリ政権を支え、CIAへの取次ぎと公務職員の人々らへの賄賂を行った)。
アウトゴルペがクーデターであるという表現は検閲され、フジモリ政権の公式見解ではあくまで民主主義に基づいた措置とされた。
1992/09/12、センデロ・ルミノソの指導者アビマエル・グスマンが逮捕。逮捕された囚人服のアビマエル・グスマンは広く公開]され、それ以降のセンデロ・ルミノソは大いに弱体化する。
1993/12/29に新憲法(現行のペルー憲法)を公布し、31日に制定。それまでの憲法に比べて大統領権限を広げた。
フジモリ政権の対テロ対策に次第に追い詰められていったMRTAは1996/12/27に14名のメンバーが在ペルー日本大使公邸人質事件を起こし、622名を人質(最終的な人質数は72名)の解放を条件に、投獄されているMRTAメンバーの解放を求めた。
1997/04/22、ペルー海軍特殊作戦部隊が地下トンネルを利用して公邸に突入。72名中71名(人質の1人、カルロス・ジュスティ最高裁判事は死亡)が解放された(橋本首相への事前告知はなし)。
特殊部隊のバレル中佐・ヒメネス中尉が殉職。MRTA14名が全員死亡
(MRTAメンバーは超法規的殺人によって殺された)。
1996年から2000年にかけてプランヴェルデによる「文化的に遅れ、経済的に貧しい集団の根絶」に基づく、先住民全滅(民族浄化)を目的とした先住民族と農村部の女性30万人ほどの強制不妊手術に関与したとされており、
この影響で農村部は著しい低出生率から若い世代が減り、より貧困化することになった。
2000/09/14に流出した「モンテシノスがアルベルト・コウリ野党議員に賄賂を送る映像」がテレビを通じて公開されると、モンテシノスにフジモリに辞任を申しで、
政権基盤であった秘密警察SIN(国家情報局)は議会により解散となった。
これらを受け、フジモリ政権は不安定化が進んだ。
2000/11/17にはAPEC(アジア・太平洋経済協力)の出席として東京に駐在すると、大統領辞任を表明した。事実上の亡命。