ミュージックフェア
みゅーじっくふぇあ
『シオノギ・ミュージックフェア』(SHIONOGI MUSIC FAIR)とは、1964年8月31日からフジテレビ系列局の一部で放送されている音楽番組である。
現在は土曜18:00-18:30に放送されている。フジテレビの番組としてだけでなく、日本の民放でレギュラー放送されている音楽番組の中の最長寿である。フジテレビ系列で地域限定スポンサードネットにより同時ネットとなっているが、スポンサードネットの対象から外れた放送局では放送していない。
タイトルの通り塩野義製薬(シオノギ製薬、シオノギ)一社提供番組だったが2016年4月以降は子会社のシオノギヘルスケアに移行されたものの、未だにシオノギ製薬名義となっている。
1964年3月29日に特集番組として放送されたことに端を発し、同年8月31日にレギュラー放送開始。落ち着いた雰囲気で、毎回異なる歌手の共演を行う。
トークコーナーでは、司会が季節やゲストにまつわるテーマを挙げてトークを行い、ゲスト同士でもトークを繰り広げる。スティービー・ワンダーやマイケル・ジャクソンなど海外の大物アーティストも出演している一方、水樹奈々や宮野真守をはじめとするサブカルチャー系のアーティストが出演することもある。特に2019年3月2日放送分に出演したスタァライト九九組は、これが唯一の地上波テレビ番組出演だったりする。
放送開始時から1983年9月29日まで、2回枠を移動(月曜21:00→火曜21:30→木曜22:30)しながらゴールデン・プライムタイムで放送され、1983年10月2日から2001年3月25日まで深夜(日曜23:00)で17年半放送された。日曜23時時代は、シオノギの30秒などのCMを放送し、本番組が始まるものだった。
2001年4月7日にこれまで夕方の全国ニュースを放送していた土曜18時台前半に移動し、現在に至る。
番組タイトル
1999年まで『ミュージックフェア』の後に、西暦の下2桁('yy)を添えていたが、2000年以降は行わず。
2001年4月7日に4度目の枠移動と同時に『MUSIC FAIR 21』となり、2008年9月27日まで続いた。2008年10月4日から『MUSIC FAIR』となっている。
初代 | 越路吹雪 | 1964.8.31-1964.12.28 | 特集版の司会も務めた | |
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2代目 | 左幸子 | 1965.1.4-5.31 | ||
3代目 | 南田洋子 | 長門裕之 | 1965.6.7-1981.12.24 | 南田が単独で司会を務めたり、長門が司会代行を務めた事がある |
4代目 | 星野知子 | 1982.2.7-1983.3.27 | ||
5代目 | 古手川祐子 | 1988.4.3-1995.10.1 | ||
6代目 | 鈴木杏樹 | 1995.10.8-2001.3.25 | ||
7代目 | 鈴木杏樹 | 恵俊彰 | 2001.4.7-2016.3.26 | 鈴木杏樹は6代目から引き続き担当 |
8代目 | 仲間由紀恵 | 軽部真一 | 2016.4.2-現在 | 2018.8.5-2019.2.32は仲間が産休に入り加藤綾子が代行 |
軽部はフジテレビアナウンサー、加藤はフリーアナウンサー(元フジテレビアナウンサー)
先述の通り地域限定スポンサードネットという特殊なネット形態を取っているため、放送していない系列局が少なからずある、どころか、福島テレビとテレビ宮崎と鹿児島テレビでは放送実績が全くない。他のキー局と番販協定を結んでいた上、そちらの番組をやたら放送していたからなのかも知れない(前者はTBS、中者は日本テレビとテレビ朝日、後者は日本テレビ)。
ただその一方で札幌テレビ、広島テレビ(いずれも日本テレビ系列局)、テレビ山口(現在はTBS系列局)、九州朝日放送(テレビ朝日系列局)および山形テレビ(1993年4月にテレビ朝日系列局に転換、元々はフジテレビ系列局)は、他系列局ながらも放送実績がある。特にテレビ山口は、1987年9月にフジテレビ系列からの脱退・TBS系列局への一本化(事実上のネットチェンジ)を余儀なくされてからも、2000年6月までは放送させてもらっていた。
1960年代から70年代にかけての、ミュージックフェアをご覧になった方は、塩野義製薬のCMが怖いという印象を受けると多いのではないだろうか。長きにわたって、企業CM中心で放送しており、「シオノギはあなたの健康に奉仕するため 今日もたゆみない努力をつづけています」と銘打ち、総合ビタミン剤、総合感冒薬、解熱鎮痛剤のの3つをセットとして、薬店で手に入る市販薬(OTC医薬品)の宣伝をミニ・インフォマーシャル形式でオンエアしていた。本編終了後のエンディングでは、シオノギの社章である分銅マークについての説明を述べるCM、という構成となっていた。
これは当時、日本のテレビ業界が、まだCMにおけるBGMの必要性を認識していた人物が少なかったことや、映像機材が高価であったことに加え、宣伝にも多額の費用がかかる時代だったこともあって、このような恐怖感あるCMとなってしまった。