概要
芥川龍之介の短編『羅生門』のラストに記されている、本作を象徴することば。
初出の『帝国文学』(大正4年11月)版では「下人は、すでに、雨を冒して京都の町へ強盗を働きに急いでゐた。」と結ばれていたが、大正7年に春陽堂から刊行された短編集『鼻』に収蔵されたバージョンにて「下人の行方は、誰も知らない。」と改められた。
意味合いとしては『お察しください』的なものだが、原文がそれなだけに決してあまり良い結末は示唆されてはない。
『羅生門』の登場人物
- 下人
現代いうところの「フリーター」。本名年齢ともに不詳だが、男で若者ではあるらしい。赤く膿んだニキビがチャームポイント。
- 老婆
こちらも本名不詳。その強烈なキャラクターから、界隈では「羅生門のババア」で通っている。実質のヒロイン枠。芥川自身は『檜皮(ひわだ)色の着物を着た、白髪頭の、猿のような』と形容している。
……っていう明確な説明文が作中にあるのに、昨今の妄想逞しいユーザーは醜男な下人&美少女なババアという色々と倒錯したカップル像に改変したがるんだよ。
なんでだろうね?
解説
時は平安時代のいつ頃かの、降りしきる雨の日のこと—。
仕事をクビになり、住む所も失って当てもなく廃墟と化した羅生門(平安京の正面玄関)でボーっとしていた下人くん。手元にあるのは元の主人から貰った刀が一本。
「不景気な世の中で、この刀だけでできることといったら…。」
なお、当時の平安京は天災が多発して荒廃し、京の周辺はいわゆる火事場泥棒が行き交う無法地帯であった。
そんなことをグルグル考えていると夕方になってしまい、門の上で夜を明かそうと梯子を登り始めると、門の上には既に誰かが居る。
よく見たら、ババアが放置された女の死骸から髪を毟り取っていた。
急に正義感に燃えた下人くんは「何してやがる!」といわんばかりに飛び出してババアを取り押さえる。
するとババアは…
侮蔑の色を浮かべる下人くんに、重ねてババアは言った。
「だって仕様がないじゃん…こうでもしなけりゃ食い扶持を稼げなくてこっちも死んじゃうもの。この女だって、死ぬ前はあくどいことして金を稼いでいたんだからなんてことはないさ。」
この言葉を聞いた下人くん。なんと、今度はダークサイドに堕ちてしまった!
そして初めての獲物(=ババアがいまの今まで着ていた布)を片手に下人は夜の闇へと飛び出し、「下人の行方は、誰も知らない。」と結ばれて物語は終了する。
他作品で例えた下人の「その後」(予想)
- パターン1
モヒカンにイメチェンした後でヒャッハー!の仲間入りをするが、ケンシロウに出くわしてひでぶ!
- パターン2
キャラ変してイキり倒そうとするが失敗。奴隷に落とされ子供たちに混ざって聖帝十字陵建設のためにコキ使われる。
- パターン3
朱雀大路で出会ったグレーのスーツにワインレッドのシャツを着た男気溢れる漢を喝上げしようとするが、ボクサーのようなラッシュをくらってノックダウン。
- パターン4
手始めに真島組のチンピラになって極道を志すが、抗争の余波で組が解散。組織は真島建設に再編成され、「昼夜を問わず」「飢えた犬が如く」現場でコキ使われる。
- パターン5
喜び勇んで羅生門を飛び出した途端、門の陰から「MY NAAAAAAAME!!!! IS GYOBU MASATAKA ONIWAAAAAAAA!!!!!」と叫ぶ騎馬武者が出現。訳が分からぬまま地獄の底まで追いかけまわされる。
- パターン6
ババアを〆た際についでに聞き出した、死んだ女が生前売りさばいていた蛇肉の在庫を捕りに行ったら、なんとそれは幻のツチノコだった! 下人が感激していると背後のダンボールから突然「で、味は?」という声が聞こえ、その瞬間にゴキュっという音とともに視界が暗転。
--???「こちらスネーク、目標を始末した」
- パターン7
ガノン城に略奪へ向かうが、武器がマスターソードではなくただのナマクラだったため魔法弾を打ち返せずボス部屋にて死亡。
- パターン8
ソロプレーヤーだったため、単騎でジンオウガへ特攻。泣きながら羅生門へと帰ってくる。
- パターン9
意志薄弱でやっぱり悪堕ちできず。迷走の果てに「無抵抗主義の村」に逃げ込むが、通りがかりのラオウに説教される。
- パターン10
けっきょくババアだけが生き残った
教訓
極端なはなし、この下人くんは浅はかな部類としか言いようがないことになる。
ともすれば直感が働くぶん某伊藤開司氏の方がましかもしれない。
国語の教科書で『羅生門』が取り上げられる際には、「若者とはいつの時代も思慮が浅いという芥川なりの比喩表現が散りばめられている」と解説されるのが常である。
備考
メタな話しをすると、作者の芥川は『羅生門』執筆の直前に当時交際していた女性との婚約を彼の実家から反対され泣く泣く彼女と別れる羽目になっており、かなーり自暴自棄になっていたとされる。当然、その時の人間不信さながらの心理状態はガッツリと同作へと投影されたわけである。
が、そんな芥川も後々に別の女性と結婚して所帯を持った。
その頃になるとかつて鬱々としていた芥川の内心にも変化が起きていたらしく、「人間はどうしようもないけど、少しくらいなら『可能性』があると思ってもよいのではないか」として上記の改変に至ったとされている。
余談ながら、芥川の師匠筋である夏目漱石も自著『吾輩は猫である』執筆中にそのモデルである飼い猫が亡くなるなどのトラブルが重なったことでノイローゼに陥ってしまい、この影響で同作はかなり衝撃のラストを迎えることになる。
が、これが落ち着いた後に上梓された次回作こそがかの痛快極まりない『坊っちゃん』なのである。
クリエイターのメンタル状況って、ガチで重要なわけである。
関連タグ
羅生門のババア提供
DiZ様