概要
夢路いとし(1925年~2003年)・喜味こいし(1927年~2011年)はかつて関西を中心に活躍した上方漫才の重鎮で、多くのファンに親しまれた兄弟漫才師コンビである。本名はいとしが「篠原博信」、こいしが「篠原勲」。
二人はあまり似ておらずひょうひょうとした兄、ガラガラ声の弟が絶妙な話芸で多くのファンを獲得した。
軍需工場に徴用された関係で兄弟は太平洋戦争中活動を休止。
弟の喜味こいしは1945年8月6日に、広島で被爆した。陸軍兵舎で朝食中に(飯盒で飯を食べていた)米軍により原子爆弾が投下された。光った瞬間に銃座の下へ滑り込み、直後に兵舎が上から下へ押しつぶされたが、広島城の影であったこと等さいわいして奇跡的に怪我無く生き延びた。
戦後は漫才だけでなくコマーシャルや藤山寛美の舞台・映画やドラマなど幅広く活躍した。2003年に夢路いとしが死去、2011年に喜味こいしが死去。
大阪市指定無形文化財指定。
人物・来歴
若いころから病弱で徴兵されなかった。
マフラー姿の青年航空兵のポスターにあこがれ零戦のパイロットになりたかったが徴兵検査で偏平足を指摘され「足が疲れるとペダル操作ができなくなり戦闘機が落ちる」という理由から 歩兵にまわされた。(後年「足が疲れるのになんで歩かされる歩兵なんじゃ」とネタにしていた。)
結果 広島で被爆、着の身着のままで大阪に帰るが 家族はこいしが死んだと思って位牌を作っていたという。(着るものが無いので入院時の白衣に、帽子が無いから頭に三角巾を巻いていたため家族に幽霊と間違われたという。)戸籍上の誕生日は11月5日であるが、巡業で出生の届出が遅れたため本当の誕生日は原爆投下の8月6日だったと後で父から聞かされたという。
上方漫才祭りなどでは「これからの漫才は実力のある若いものにゆだねていかなければいけない」としてオオトリを他の漫才師にまかせて自分たちはそのひとつ前に出演していた。(ハイテンポで爆笑をとるオール阪神巨人の後に出るより、前に出た方がお客様をつかみやすく演じやすかったのかもしれない。)
評価
漫才ブーム以前のかつての上方漫才はこてこての大阪弁をさらに強調した下品な感じの漫才が多かった。しかしいとしこいしの漫才は著名人・文化人からも「上品で」「はんなりとした」と評価され万人受けした。
いとしの「力の抜けたひょうひょうとした」軽快な語りと、こいしの「一点一画おろそかにしない楷書で書いたような」かたい口調と独特の間によって 後にも先にも類似する漫才師が見られない名人話芸となった。
いとしがボケ、こいしがツッコミではあったものの、時折それが逆になった。
ジンギスカン(または「わたしの好物」)ではボケとツッコミが完全に入れ替わる2種類のパターンを演じることができた。
持ちネタ・演目
ギャグ
いとし「5万円・7万円・10万円 運命の分かれ道!」
(テレビバラエティー番組「がっちり買いまショウ」より)
出演作品
映画
テレビ・ドラマ番組
テレビバラエティー番組
「がっちり買いまショウ」司会
NHK「バラエティー生活笑百科」相談漫才の常連
「笑点」大喜利前の漫才の常連