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歩兵第三十四連隊

ほへいだいさんじゅうよんれんたい

大日本帝国陸軍の連隊の一つ。兵科は歩兵。 静岡県に駐屯し、徴兵された静岡県民の多くが入営した事から「静岡連隊」、後述の経緯から「橘連隊」との通称もある。 本項では日露戦争で大隊長として戦死した橘周太、及びそれを元にした軍歌「橘中佐」についても記述する。
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歩兵第三十四連隊編集

編成から日露戦争まで編集

日清戦争が終結した1895年(明治28年)、大日本帝国陸軍は、将来想定されたロシアとの戦争に備えて兵力・師団数を倍増する計画を立てた。歩兵第三十四連隊もその一環として設置された。。

静岡市には以前から徴兵事務を行う静岡大隊区司令部が存在し、静岡市議会は連隊が静岡に設置される可能性が高いと考えて同年12月から誘致活動を行なっていた。静岡大隊区司令官から市の熱意が必要だと助言された静岡市は、6年前に1万2千円を払って陸軍省から取得した静岡城址(現在の駿府城公園)を無償で陸軍に提供し、他の土地取得にも協力した。軍隊の需要が市の商工業を潤すと考えたためだが、陸軍は誘致運動に関係なく静岡に連隊を置く方針を決定していた。

1896年(明治29年)12月、従来から歩兵第18連隊があった豊橋で、連隊本部と第1大隊のみで発足した。1897年(明治30年)3月に静岡に移駐。同年12月に第2大隊、翌1898年(明治31年)に第3大隊が編成され、編成完結。


1904年(明治37年)2月に勃発した日露戦争で、歩兵第三十四連隊を含む第3師団は3月6日に動員令を受けた。第三十四連隊は3月11日に動員を完結して、26日から27日にかけて進発した。広島から海路をとり、5月5日に遼陽半島に上陸する。

連隊は得利寺の戦い、遼陽会戦、沙河会戦、奉天会戦に参加した。このうち遼陽会戦で関谷銘次郎連隊長、橘周太第1大隊長が戦死した。

日露戦争中、歩兵第三十四連隊には補充兵を含めて約5000人が従軍し、そのうち1112人が死亡した。(戦病死を含む)

後に歩兵第三十四連隊は、橘周太大隊長の逸話が広く知られ、軍歌も作られた事もあり、「橘連隊」という通称も用いられた。

第一次世界大戦及び戦間期編集

1914年(大正3年)にはじまった第一次世界大戦では、歩兵第三十四連隊は10月に青島の戦いに参加、青島守備に1個大隊を残して12月までに内地に帰還した。青島に残留した大隊は1915年5月にその任を解かれて帰国した。

1923年(大正12年)の関東大震災では、ほぼ全部隊が被害地域に出動した。第15師団長の命令で、9月1日の震災発生後、3日に第2大隊が静岡県駿東郡の小川町に出動した。5日に第1大隊と第3大隊が神奈川県小田原に向けて出動した。部隊は10月27日にひきあげた。

日中戦争〜敗戦編集

1937(昭和12)年より始まった日中戦争では上海での戦闘、南京攻略戦、徐州会戦等に参加し以後内地より徴兵された補充兵を加えつつ中国各地を転戦し、1945年8月15日の終戦を安徽省 蕪湖で迎えた。将兵は武装解除後に中国軍に抑留され翌1946年までに内地へ復員した。

主力は中国へと出動したが留守部隊は終戦まで現在の駿府城公園内にあり、「静岡連隊」として親しまれた。

現在でも年配者を中心に連隊の正式名称よりもこちらの通称のほうがしっくり来る方々は少なくない。

なお、近年までは周辺に民家として転用された倉庫等の当時の建築物(遺構)が残っていた。


沿革編集

1896年(明治29年)12月、豊橋で開隊。連隊本部と第1大隊のみ。

1897年(明治30年)3月15日、静岡に移転。

  5月、連隊射撃場を有度山に仮設置。

  12月、第2大隊発足。

1898年(明治31年)3月24日、軍旗拝受

  12月、第3大隊発足。

1901年、大谷村(現在は静岡市の一部)に連隊射撃場を設ける。

1904年(明治37年)3月11日、日露戦争により動員される。

1905年(明治38年)、第3師団から第15師団に所属変更

1914年(大正3年)10月、青島の戦いに従軍

1925年(大正14年)、宇垣軍縮により第15師団から第3師団に所属変更

1928年(昭和2年)、山東出兵に出動

1937年(昭和12年)

9月、上海での戦いに参加 楊行鎮攻略戦-劉家行攻略戦-大場鎮攻略戦-蘇州河敵前渡河

12月、南京攻略戦に参加

1938年(昭和13年)、徐州会戦などに参加

1939年(昭和14年)、襄東会戦に参加

1941年(昭和16年)、第一次長沙作戦などに参加

1943年(昭和18年)、大別山作戦に参加

1944年(昭和19年)、湘桂作戦に参加

1945年(昭和20年)5月、湘桂反転作戦を開始

後身部隊編集

1962(昭和37年)、陸上自衛隊第1師団隷下で第34普通科連隊が編成された。所在地は御殿場市の板妻駐屯地、通称は「橘」と第三十四連隊を意識したものとなっている。

橘周太編集

慶応元年(1865年)9月15日、庄屋城代季憐(格橘季憐とも)の二男として長崎に生まれる。勝山小学校、長崎中学校、二松学舎を経て1881年(明治14年)、陸軍士官学校幼年生徒に合格する。


以後軍人の道を歩み、東宮武官、歩兵第36連隊中隊長、名古屋陸軍地方幼年学校長を歴任し、1904年(明治37年)の日露戦争開戦にあたっては新設の第2軍管理部長に任命される。同年8月には歩兵第34連隊第1大隊長に転出し首山堡の攻撃にあたる。橘はその戦闘で戦死し、同日付で陸軍歩兵中佐に進級し勲四等旭日小綬章及功四級金鵄勲章を賜った。生前は長崎中学から漢学塾二松学舎出身ということもあり、漢詩をよくしたため、名古屋陸軍幼年学校校長時代は自ら教壇に立ち漢文を弁ずることもある教育熱心な軍人であった。

軍歌「橘中佐」編集

上記の橘周太大隊長を題材とした軍歌。

「上」と「下」の二作が存在するがそれぞれ旋律は異なる。歌詞は「上」のみで19番、「下」を含めると32番にもなるので「上」のみ取り上げる。

当時のsp盤の録音時間は3分半程だったので、全番を収録している音源はないようである。「下」は知名度が低い事もあり当時の音源自体が殆ど無いようで、編者は聞いたことがない。誰かご存知の方はいらっしゃるだろうか。

作詞、鍵谷徳三郎 作曲、安田俊高。

著作権は既に失効している。

  • 1

遼陽城頭夜は明けて

有明月の影凄く

霧立ち込むる高梁の

中なる塹壕声絶えて

目覚めがちなる敵兵の

胆驚かす秋の風

  • 2

我が精鋭の三軍を

迎撃せんと健気にも

思い定めて敵将が

集めし兵は二十万

防御至らぬ隅も無く

決戦すとぞ聞こえたる

  • 3

時は八月末つ方

我が策略は定まりて

総攻撃の命下り

三軍の意気天を衝く

敗残の将いかでかは

正義に敵する勇あらん

  • 4

「敵の陣地の中堅ぞ

まず首山堡を乗っ取れ」と

三十日の夜深く

前進命令たちまちに

下る三十四連隊

橘大隊一線に

  • 5

漲る水を千尋の

谷に決する勢いか

巌を砕く狂瀾の

躍るに似たる大隊は

彩雲棚引く明の空

敵塁近く攻め寄せぬ

  • 6

かくと覚りし敵塁の

射注ぐ弾の烈しくて

先鋒数多斃るれば

隊長怒髮天を衝き

「予備隊続け」と太刀を振り

獅子奮迅と馳せ登る

  • 7

剣戟摩して鉄火散り

敵の一線まず破る

隊長咆吼躍進し

卒先塹壕飛び越えて

閃電敵に切り込めば

続く決死の数百名



関連タグ編集

大日本帝国陸軍 歩兵 連隊

日露戦争 太平洋戦争

軍歌 軍人 静岡

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