酒井了恒
さかいのりつね
天保13(1842)年11月12日に酒井了明の長男として生まれた。
時は折しも幕末の動乱。文久3年(1863年)に庄内藩が江戸幕府より江戸市中取締を命ぜられ、了恒はその番頭となり、討幕派摘発に尽力。1866年(慶応2年)、藩内で公武合体を目指す改革派が摘発される「丁卯の大獄」が起こり、改革派であった叔父の酒井右京が切腹し、父の了明も連座して隠居した為に家督を継ぎ、藩中老となった。
1868年(慶応4年)、将軍徳川慶喜は薩長の討幕を阻止するため「大政奉還」を実行し、幕府主導の新国家体制作りを図った。これに対して薩摩の西郷隆盛は相楽総三ら浪人達を使って江戸市中や関東各地で騒擾を起させ幕府側を刺激。庄内藩は挑発に乗ってしまい、新徴組を率いて薩摩藩邸を焼き討ち。これが口実となり、鳥羽伏見で旧幕府軍と新政府軍が軍事衝突。戊辰戦争が勃発する。
旧幕府軍は敗走し、東進する官軍を前に江戸城無血開城となった。しかし、薩長の怒りの矛先は京都で新選組を率いた会津藩に向けられ、会津を朝敵として討伐する命が東北各藩に出された。4月に柴橋・寒河江領の年貢米を巡って庄内藩は新政府軍と衝突し、了恒も加わって退けた。しかし、これを機に庄内藩も朝敵とみなされ、同様の討伐令が出され、耐えかねた会津と庄内など東北諸藩は「奥羽越列藩同盟」を結成する。
7月、26歳の了恒は二番大隊を指揮を任され、北斗七星を逆さに配した「破軍星旗」の軍旗を掲げた。新政府側になった久保田藩や新庄藩など秋田方面諸藩との戦いに向かい、新庄城を攻めた。新庄攻略後は久保田藩領内に北進して戦闘の繰り返しの末に横手城を陥落。角間川の戦いでも勝ち、わずか2か月足らずで久保田城の目前にまで進軍。連戦連勝と猛攻振りに「鬼玄蕃」の異名で敵から恐れられた。風邪をこじらせて寝込んでも、輿に乗って指揮を執って勝利したほど。しかし、米沢藩や仙台藩など味方が次々に降伏し、9月に領内の敵掃討を理由に撤退し、追撃する敵を退け、庄内藩は降伏した。
明治維新後、廃藩置県の下に大泉県ができ、7月に了恒は県参事に就き、続いて8月に明治政府に仕官して兵部省七等出仕に任ぜられた。肺病を患ったが、若者の育成に努め、明治7年(1874年)1月に鹿児島で西郷隆盛と邂逅。10月に政府の密命を受けて、清国に渡って内情を偵察し、帰国後に「直隷経略論」を刊行して開拓使の黒田清隆に提出。風土や文化が異なる大陸での戦争は難しいと報告している。
明治9年(1876年)2月5日、肺病が悪化し死去。享年34歳。