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曖昧さ回避

  1. INAXの前身、伊奈製陶。
  2. インドの独立運動家スバス・チャンドラ・ボースが率いたインド人軍隊である『インド国民軍』の略称。本記事で解説*

2.の概要

日本の支援によって設立され、インドの独立運動家で『独立の英雄』としてインド国民に慕われるスバス・チャンドラ・ボースが司令官を務めたインド人による軍隊軍事組織である。

1942年から1945年にかけて存在し、日本軍と共に太平洋戦争(大東亜戦争)を戦った。『インド国民軍』の略称である(Indian National Army)。

経緯

F機関とインド国民軍の創設

マレー・シンガポール攻略戦を前に、大本宮は対イギリス戦に備えるべく、藤原岩市少佐を機関長とした諜報工作の特務機関『F機関』を編成し、マレー半島に布陣していたイギリス軍の7割を占めていたインド人兵士たちに投降を呼びかけ、インド独立のために立ち上がらせようとした。

部下思いで知られた藤原少佐は、誠心誠意と真心をもってインド人兵士の帰順に全力を尽くし、その際にマレー半島西岸の街「アロールスター」の近郊にある天然ゴムの農園に潜んでいたインド人兵士たちを説得した時、当時インド人兵団のリーダーだったモハンシン大尉と出会い、後にインド国民軍を組織して日本軍と共に戦うことになる彼と藤原少佐は、特別に訓練したインド人兵士数名を1組として編成し、F機関の機関員1名と共に敵陣の深くに潜入させ、インド人兵士を説得していき、投降した兵士の数はみるみる膨れ上がっていった。

そうして1941年12月、日本軍イギリス植民地であったマレー半島シンガポールビルマに攻め込んでイギリスと交戦状態に入り、破竹の勢いでイギリス軍を撃破し、ついに2月15日にはイギリス軍の東洋における要塞であったシンガポールを陥落させ、マレー沖海戦(マレー作戦)の歴史的な完全勝利を飾った。

シンガポール占領後にF機関の機関長である藤原少佐は、ファラ・パーク競技場でイギリス軍から接収した4万5000人のインド人兵士の俘虜を前に、

「日本の戦争目的は、一に東亜民族の解放にあり、日本はインドの独立達成を願望し、誠意ある援助を行なう。ただし、日本はいっさいの野心ないことを誓う。インド国民軍、インド独立連盟の活動に敬意を表し、日本はインド兵を友愛の念をもって遇する。もし国民軍に参加したい者があれば、日本軍は俘虜の取り扱いを停止し、運動の自由を認め、いっさいの援助を行なう」

とした演説を行った。

この演説を聞いた4万5000人のインド人兵士たちは大歓声を上げ、この日をもって日本軍の“友軍”となり、これがインド国民軍の誕生の瞬間だった。

チャンドラ・ボース日本へ

マレー沖海戦の大勝利とインド国民軍の結成に、インド国民が歓喜の声を上げていた頃、独立運動の協力を求めドイツに身を置いていたスバス・チャンドラ・ボースは、「今や日本は、私の戦う場所をアジアに開いてくれた。この千載一遇の時期にヨーロッパの地に留まっていることは、全く不本意の至りである」として、日本行きを希望して大使館と接触するようになった。

この状況下において、イギリスはインドを連邦自治領として、日本インドの接近に楔を打とうとしたが、それまでボースの今が独立の好機であるという訴えかけに、曖昧な態度であったインド国民会議派は、マハトマ・ガンディー指導のもと1942年8月8日に、「イギリスよ、インドから撤退せよ」という強固な決議を出した。

宗教家兼政治指導者として、インド国民に絶大な支持があったガンディーの影響力を危惧したイギリスは、1942年8月9日にガンディーを検挙し、2年間拘留した。

その後ボースは、日本軍に協力していたビハリー・ボースモハンシン大尉の強い要請もあり、大本宮はボースの受け入れを決定し、マダガスカル島沖でドイツの潜水艦U180から日本の伊号潜水艦(伊29)に乗り移り、1943年5月5日に日本占領下のマラッカ海峡のサバン島に到着し、休む間もなく東京へ飛んだ。

ボースは東條英機首相と会見し、その会見において、「インド独立のため、日本は無条件で援助してくれますか。政治的なヒモがつかぬことを確約してくれますか」と要請し、初め東條首相はボースをあまり評価しておらず、ボース側の会見申し入れを口実を設けて拒絶していたが、しかしボース来日から一ヶ月後に実現した会見で、東條首相はボースの人柄に魅せられ、一ヶ月後の再会談を申し入れた。

再会談でボースと東條首相は日本とインドが直面している問題に関する意見を一致させ、ボースの要請を確約し、その後食事会にボースを招待した。東條首相は、ボースの影響でインドに対する考え方を新たにし、またボースの東亜解放思想を自らが提唱する大東亜共栄圏成立に無くてはならないものだと考えた。

こうして東條首相の確証を得たボースは、本格的にインド独立に向けて始動する。

自由インド仮政府の樹立

1943年6月19日、記念すべき記者会見が、それまで着けていた覆面を脱ぎ、帝国ホテルで行われ、その後1943年6月27日、黒山のインド人群衆が押し寄せていたシンガポールの飛行場に到着し、山下奉文大将指揮下のにあったF機関藤原岩市機関長とモハンシン大尉が組織化した、インド国民軍の儀仗兵一個大隊に出迎えられる。

そして1943年10月23日、日本政府はボースを首班として同年10月21日に樹立した自由インド仮政府の樹立を正式に承認する。

この自由インド仮政府は、イギリスのインド植民地支配以来、初の独立政府であり、日本政府は将来インドが真に解放される日まで、各般にわたり全面的に支援することを決定した。

チャンドラ・ボース首班は、同年10月24日に正式にアメリカイギリスへ戦線布告を宣言した。

そして、同年11月の大東亜会議には、オブザーバー(準資格参加者)として参加する。ボースはそのカリスマ的魅力で、国民軍の募兵を積極的に行った。

自由インド仮政府の初閣議において、インド民族の結束を強めるべく、インド人同士が交わす挨拶の全てを「ジャイ・ヒンド(インド万歳)」に統一し、ボース首班を「ネタージ(総領)」と呼ぶことに統一された。

そして『自由インド仮政府樹立』宣言において

「……インド独立政府は成功への諸条件を獲得した。いまや最終的闘争決行のみが残された問題である。それは国民軍がインド国境を越えて、デリーへの歴史的進撃に乗り出すときにはじまり、独立旗がニューデリーの総督官邸の上に掲揚されるときに終わる」

と演説し、最後に壇上から「チェロ・デリー チェロ・デリー」(征け、デリーへ)と呼びかけ、インド国民軍とインド民衆二万人が唱和し、地鳴りのように轟いた。

ボースの尽力による、自由インド仮政府の樹立にインド国民は熱狂し、国民の怒りは支配するイギリスに向けられ、そこでイギリス領インド帝国政府は、始まって以来初となる武官総督ウェーベルが就任し、徹底的な弾圧が行われた。

インド独立戦争(インパール戦争)

その後、ボース率いるインド国民軍は、インドの軍事的方法による解放を目指し、1944年1月7日にビルマのラングーンに本拠地を移動させた。

ボースは同地においてビルマ方面軍司令官河辺正三中将と出会い、河辺中将は歓迎の宴席で示されたボースのインド独立にかける意志と、その後の態度を見てボースに惚れ込み、「りっぱな男だ。日本人にもあれほどの男はおらん」と極めて高く評価するようになった。

その後、河辺中将の指揮のもと、インパールにて作戦が行われる。

詳細⇒インパール戦争

ボースの事故死

インパール侵攻の失敗により、インド国民軍はその後、主にビルマで連合軍と戦った。

その後、ボース首班は日本の降伏を、シンガポールで坪上大使から告げられ、部下に対する指示を済ますと、側近を連れて、サイゴンで寺内南方総軍司令官に、「閣僚と国民軍首脳を従えてソ連入りを果たしたい。その場合、残した閣僚はわたしの後を追って来られるようご手配をいただきたい」 と申し入れ、シンガポールを飛び立った。

インド独立を終生あきらめなかったボース首班は、ソ連の支援を求め、満州に侵入してきたソ連と折衝する計画だったが、1945年8月18日に補給に立ち寄った台湾・松山飛行場から大連へ向け飛び立とうとしたとき、離陸事故で火だるまで放り出され、その時の状況をラーマン副官によると、ボース首班は

「……もう助からないと思う。君が国に帰ったら私は自由独立のため、最後まで戦ったといってくれ。もはや何人たりとも我々を束縛しておくことはできない。われわれは戦い続けなければならない。そうすれば遠からずインドの自由はやってくる」

と語り、息を引き取る間際、吉見軍医が遺言を聞くと、天皇陛下と寺内さん(寺内寿一・南方総軍総司令官)によろしく……安眠したい」との言葉を残して永眠した。

午後八時、スバス・チャンドラ・ボース、享年48歳の生涯だった。

インド国民軍裁判

そして日本の敗戦後、1945年11月5日にインドで軍事裁判が開廷し、インパール作戦でインド国民軍を指揮したセイガー、シャヌワーズ、クローバック・シンの各連隊長を被告とし、『反逆罪』とし、イギリスは向こう六ヶ月間にインド国民軍四百人の将兵を、『抗命』『通牒』『利敵』『反逆罪』で処罰すると発表した。

しかしこの裁判は、インド国民の戦意を喪失させようというイギリスの思惑とは逆に、インドの独立を決定づけることとなった。

被告三人は、民衆からボース首班の意志に基づいて、祖国解放のために戦った英雄として熱狂的に迎えられ、これにより奮起したインド民衆は一斉に決起し、いたるところで焼き討ち事件が起こり、デモと集会が波状的に連日連夜におよび、流血の惨事がインド全国各地起こる騒乱状態となった。

国民会議派も「インド国民軍将兵はインド独立のために戦った愛国者」として、被告の即時釈放を要求し、1946年2月にはイギリス海軍インド人水兵たちも反乱を起こし、ボンベイカラチカルカッタで「インド国民軍海軍」を名乗り、数十隻の艦艇を占拠した。

更に彼らは市民に混じりイギリス軍の官憲と市街戦を展開し、イギリス軍のインド人将兵たちはイギリス人上官の発砲命令を拒否し、人々はイギリスの植民地政府による日本への戦勝記念日に弔旗を掲げて抗議の気持ちを表した。

これらの一連の事件によって動揺したイギリス植民地政府やインド総督は、被告に対し減刑を行い同日付で軍司令官命により、『執行停止』『即日釈放』が宣告された。

この裁判に召喚された日本人証人を前に、インド法曹界の最長老であるパラバイ・デサイ主席弁護人は、

「インドはほどなく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のおかげで三十年も早まった。これはインドだけではなく、ビルマも、インドネシアベトナムも……東亜民族共通である。インド国民はこれを深く肝に銘じている。日本の復興にはあらゆる協力を惜しまない」

と述べている。

ボースが息を引き取る直前に、「もはや何人たりとも我々を束縛しておくことはできない」との予言通り、被告は実質的に無罪を勝ち取った。

そして、ボースの故郷であるカルタッタでは、五百台の青年自転車隊、五百騎の騎馬隊を先頭に、「ネタージ・キ・ジャーヒン」(総領万歳)と連呼しながら、純白のサリーに身を包んだ五百人の乙女と五千人の青年隊、それに続く数十万人の市民による行進が行われた。

ボンベイでは、旗艦ナバタ号他二十隻をインド兵が占拠し、カラチでも旗艦ヒンドスタン号を占拠して、もしイギリス側が弾圧するなら全艦砲撃で応酬すると宣言した。

ボース首班が息を引き取ってから二年後、イギリスはもはや事態収拾は不可能と判断しインドに統治権を返還、1947年8月15日にインド独立令が発令され、インドは二百余年の鉄鎖から解放され、ついに独立を果たした。

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