概要
1980年7月21日生まれ、高知県出身。「球児」は本名(理由は後述)。
高知商業高を卒業後、1998年に阪神タイガースにドラフト1位で入団した。同期には松坂大輔らがいる。当初は鳴かず飛ばずで「球児なんて名前負けやから改名せぇ!」といったように阪神ファンからヤジも飛ばされた。元々骨が軟らかい体質で、スナック菓子中心の食生活でスタミナも無かったが、2000年に結婚してからそれらは夫人の協力によって改善された。
2004年ごろに中継ぎに転向。最初は久保田智之が抑えだったため、8回限定の中継ぎだったが、その後は球児が抑えとなった。2005年にはジェフ・ウィリアムス、久保田智之とともに勝利の方程式「JFK」を形成し、リーグ優勝の立役者となる。
その後も中継ぎや抑えとして阪神で活躍したが、2013年に米大リーグのシカゴ・カブスと契約。2014年オフにFAになると、テキサス・レンジャーズに移籍。しかし成績が良くなく、2015年シーズン途中に自由契約になる。その後は日本へ球界復帰。まず2015年シーズンが終わるまで独立リーグの四国アイランドリーグplus「高知ファイティングドッグス」で報酬なしで活躍し、同年オフに古巣・阪神タイガースへの復帰となった。
2016年の阪神復帰後は先発投手としての調整となったが、この年は5試合の先発登板で防御率6.12と振るわなかったため救援投手に復帰。コンディション不良で現役引退を決めた2020年までプレーを続けた。日米通算245セーブ・164ホールド。
引退後も球団本部付スペシャルアシスタントとして阪神球団に残ったが、解説者・Youtuberとしても活躍。理論的で分かりやすい解説に定評がある。
2022年にはBIGBOSSの要請で日本ハムの臨時コーチとして招聘され、吉田輝星等にアドバイスを行った。
2024年10月14日には、退任する岡田彰布の後任として阪神タイガースの1軍監督に就任することが発表された。なお藤川自身は2021年に投稿されたyoutubeの100の質問に答えるという動画で「監督になりたいか」という質問に「なりたくなくてもなると思います」と答えている。
選手としての特徴
「火の玉ストレート」と称される驚異的なノビのストレートが一番の武器。打者がストレートを待っているにもかかわらず悉くボールの遥か下を空振りしていく様から「分かっていても打てないストレート」として恐れられた。
他にもカーブやフォークを持っており、対強打者や緩急戦法で重宝。が、やはり直球で強気に攻める傾向があった。一方、直球をポンポンとストライクに投げ込む投球スタイルから、江夏豊は自身の論評で「もっとボール球を上手く使うべきだ」という趣旨の注文を付けていた。
阪神の絶対的守護神として一時代を築いたことから抑えのイメージが強いが、ブレイクしたきっかけが「JFKのF」だったように中継ぎと抑えどちらも担当しており、NPB初の「通算150セーブ・150ホールド」の記録を持つ。
エピソード
- 球児という名前は、父が草野球でノーヒットノーランを達成し、その記念として名づけられた。母はやめてくれと懇願したという。
- 中学時代は女優の広末涼子と同級生であった。阪神入団時には広末から激励の手紙が届いた。
- 幼い頃は巨人ファンであり、斎藤雅樹に憧れていたとのこと。
- 右投げ左打ちだが、死球による利き腕の肩の怪我防止のために、実際は両打ちである。
- 2006年のオールスターゲームにて登板した際、予告ストレートという全体未聞の構えを見せながらアレックス・カブレラ、小笠原道大の2人をストレートのみで連続三振に斬って取ったという伝説を持つ。
- 清原和博とは浅からぬ因縁があり、上述の直球で強気に攻める投球スタイルは彼との騒動がきっかけであると証言している他、「火の玉ストレート」の名付け親は清原である。
- NHK-BS1「球辞苑」において2016年シーズン最もストレート投球比率が高い投手であったことが判明。とても30代後半に入ったベテランとは思えないパワフルな投球スタイルとして多くの野球ファンをどよめかせた。球の回転軸を水平に保つこと、速度を追求し過ぎないことを心掛けており、「今年(2017年)の方が自信がある」と番組内で語った。
- 2003年の阪神優勝メンバーかつ令和時代に登板した事のある最後の現役選手でもあった。