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鎌倉幕府の編集履歴

2015-03-02 17:00:20 バージョン

鎌倉幕府

かまくらばくふ

かつて日本に存在した武家政権。

概要

かつて日本に存在した武家政権(当時のこれに相当する呼称は「鎌倉殿」)の後世における名称。その存続期間を鎌倉時代と称する。源頼朝相模鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市中心部)を拠点として創始した政権。武家政権としては平清盛が興した平家政権につぐ2番目、朝廷から完全に独立したものとして初めてのものとされる。


鎌倉幕府の仕組み

鎌倉幕府の特徴は、頼朝は鎌倉殿として武士たちの先祖伝来の土地の権利を保証し、その代り武士たちは頼朝に命懸けで仕える個人的な従者すなわち御家人になる、という御恩と奉公の契約の仕組みにあった。従来の朝廷の仕組みでは、武士の生活基盤たる土地の権利は重税に脅かされ、しばしば自己負担で上京して宮中の警護を強いられ、挙句にはその上京中に近隣の武士たちに土地を奪われるという不安定な有様であった。このような武士の権利を守ることが頼朝に期待されたのであった(本郷和人『武力による政治の誕生』)。木曾義仲平家源義経等の追討宣旨が出される度に、頼朝は各地に大軍を送り込んで、敵軍を破った上で占領地行政を進めた。これら謀反人の領有していた荘園や公領に置かれたのが地頭であり、そして彼らを指揮する守護が国別に置かれた。これを朝廷が事後承諾することによって、頼朝が守護・地頭を通じて全国を支配する鎌倉幕府の仕組みが出来上がった(入間田宣夫『武者の世に』)。


頼朝の死後まもなく、源氏将軍は絶えてしまう。つまり武士たちの所領を保証できる鎌倉殿という権威が消えてしまったことになる。しかし、ライバルの御家人たちを打倒した北条氏が、御家人の最高合議機関たる評定衆を率いる執権という職について実権を握った。執権は、摂関家もしくは皇族から名目上の将軍を鎌倉殿に迎えて、その意向による命令という形式を踏むことによって幕府を維持した。その仕組みの基盤となったのが御成敗式目と大田文であった。御成敗式目とは、その後の武家政権の模範となった法令である。すなわち「御家人の合議によって決定を下すこと」「当時の武家社会における正義の基準であった『道理』に従った公平な裁定の理念」「御家人の所領問題に関しては道理に従って公平に裁き、鎌倉殿といえど軽々しい対処は許されない」「武家の裁判権の境界を明示し、その範囲外での公家や国司の裁判権を尊重する」等々。これによって御恩と奉公のシステムは鎌倉殿個人の権威から法律による保護へと変化し、幕府の統治は安定することになった。また大田文とは荘園や公領の面積と領有者を確定させた帳簿である。これによって土地の所有関係は明確になり、土地問題に関して裁定を下す基礎資料として御成敗式目の実施を支えた。これらを策定した執権の北条泰時は、理想の統治者として後世に讃えられることになる(入間田宣夫『武者の世に』)。


歴史

鎌倉幕府の歴史を語るには、まず幕府の始まりはいつかという問題を避けて通れない。従来は頼朝が征夷大将軍に任命された1192年が始期とされていた(「いい国(1192)つくろう鎌倉幕府」の語呂合わせが割と有名)。しかし、近年では1180年に頼朝が鎌倉に拠点を定めてから徐々に政権の実態を構成していったことが明らかとなってきている。こうして先述のように、1185年に畿内以東の各国において守護・地頭を置くことが朝廷から認められた時点を一応の始期とするようになってきている(いい箱(1185)作ろう鎌倉幕府である)。


1185作ろう鎌倉幕府


鎌倉幕府の制度的起源は、公家の家政機関に求められる。「政所」とは本来公家が文書を発給したり所領の管理を司ったりするいわば公家の使用人たちの組織である。「侍所」とは使用人たちの出仕と主従関係を管理する組織であった。これらを整備したのは院政期の摂関家であり、実は鎌倉幕府とはこのような摂関家の家政機関の機能を継承して成立している(元木泰雄「院政と武士政権の成立」『院政と平氏、鎌倉政権』)。後に源頼朝は、軍事貴族すなわち公家の一員としての立場から政所や侍所を設け、将軍家の家政機関を全国支配の機関へと発展させていったということになる。


頼朝の挙兵

直接の鎌倉幕府の歴史は、伊豆の流人であった源頼朝が治承4年(1180年)8月に北条時政らを率いて挙兵し、伊豆国目代・山木兼隆を討ち取ったことから開始する。その後の経過の詳細は源平合戦記事に詳しい。幕府の成立において重要なのはその年10月、頼朝が緒戦の敗北を乗り越えて南関東の武士たちを従え、鎌倉に本拠を定めたことであろう。この頃から既に頼朝は武士たちの昔からの所領を認め保護する約束(本領安堵)、貢献に応じた新たな所領の提供(新恩給与)といったいわゆる御恩と奉公のシステムを成立させている。本郷は、鎌倉幕府とは後世の官庁オフィス街のようなものではなく、朝廷の権威で成立したものでもなく、武士を守る鎌倉殿と御家人たちの仲間意識から成立したという(本郷和人『武力による政治の誕生』)。


その頃、都の後白河法皇は、平家を破って上洛してきた木曾義仲の軍勢の兵糧徴収と称した乱暴狼藉に悩まされていた。それ以上に法皇が許せなかったのは、平家の連れ去った安徳天皇に代わる新天皇の選定に、上洛で奉じた北陸宮(以仁王の遺児)を擁して義仲が口を出したことである。こうして法皇は寿永2年(1183年)10月、東海道と東山道の年貢・官物進上について頼朝の指揮権と背く者への取締りを認めた宣旨を出す(寿永二年十月宣旨)。山本幸司はこのそれまでの頼朝自身の武力による関東支配と宣旨の効果によって東国の武士たちが配下に下ったこの時こそ鎌倉幕府の成立だとみている(山本幸司『頼朝の天下草創』)。


守護・地頭の成立

そして木曾義仲、続いて平家も源義経らが率いた東国武士の前に滅亡する。次の鎌倉幕府成立における重要な事件は、この平家滅亡後における義経と頼朝の対立である。平家打倒の最大の貢献者の一人であった義経は、頼朝がつけた軍目付を軽んじ、戦況について鎌倉への報告も怠り、頼朝の許可を得ずに任官する等の所業を咎められ、頼朝によって鎌倉への凱旋を拒否されてしまう。頼朝からすれば、命令に従わず勝手に朝廷の高位を占める弟は保元の乱のごとき一族内紛の原因であり、また後白河法皇も頼朝の強大化を恐れてこの兄弟対立を煽ったとされる(山本幸司『頼朝の天下草創』)。義経は源行家と共に頼朝追討の院宣を得るが、従う武士は少なく、奥州へと落ち延びていった。自らを追討する院宣について耳にした頼朝は、文治元年(1185年)11月に北条時政率いる大軍を上洛させて朝廷に迫り、義経捕縛の為に諸国に総追捕使(後の守護)と地頭を置くことを認めさせた。つまり幕府が全国の警察権を占有することが認められたのである。これが近年の教科書で増えている鎌倉幕府の成立時期である。


源頼朝


逃亡した義経を匿った奥州藤原氏は、頼朝が起こした奥州合戦で滅亡する。この翌年の建久元年(1190年)11月、頼朝は上洛して後白河法皇と直接今後の政治について交渉する。頼朝は権大納言・右近衛大将に任ぜられるが、鎌倉に戻る前に辞任している。しかし前右大将家として政所を御家人の所領給与機関に位置づける権威づけに、この官位は利用されたらしい(上横手雅敬「公武関係の展開」『院政と平氏、鎌倉政権』)。上横手は、この上洛で頼朝は日本国総追捕使・総地頭の地位を認められ全国の警察権を朝廷に公認された、つまりこの時こそ鎌倉幕府の成立であるとしている。


その後、1192年に朝廷から使者が鎌倉を訪れ、頼朝は征夷大将軍の地位を認められる。江戸幕府の考え方に合わせるならば、頼朝が将軍となったこの時こそ幕府の成立である。しかし『頼朝の天下草創』を著述した歴史学者・山本幸司は、先述の1183年あるいは1185年が近年における一般的な幕府成立時期であろうと述べている。入間田宣夫も著書『武者の世に』において鎌倉時代を通じて頼朝の称号は「初代将軍」ではなく「前右大将家」であり、御成敗式目が頼朝の功績を称える際も同様であったという。また当時の御家人が広く読んだ『曾我物語』から頼朝は1190年の上洛で日本将軍に任命されたという伝説も引用する。入間田はこれらに比べて1192年頼朝征夷大将軍宣下の同時代人へのインパクトは薄く、当時の実情を離れた徳川幕府の流儀をもとにした考え方であるとしている。


1184年、頼朝は公文所(後に政所と改称)を鎌倉に設置、京より下向していた大江広元を初代別当に任命する。広元は朝廷との交渉役として、また、有能な実務家として長きにわたって幕府に仕え、後述する承久の乱にも北条政子の補佐役として彼女を支え続けた。他に頼朝時代の幕府の重臣としては、北条時政、初代侍所別当の和田義盛、幕府がある相模国の有力御家人三浦義澄、嫡男頼家の乳母父で外戚に当たる比企能員、頼朝「一ノ郎党」と呼ばれた側近で二代目侍所別当となった梶原景時等がいる。彼らの一族の多くは、後に北条氏を始めとした他の御家人との内乱で滅亡している。


頼家・実朝の政治

1199年、頼朝が死去すると長男・頼家が18歳の若さで家督を相続した。彼が将軍宣下を受けたのはその3年後であり、それまでは「鎌倉幕府の長」として「鎌倉殿」の称号を帯びただけであった。頼家は若さゆえの思慮のなさに乱行に及び、幕府を率いるだけの器量がないと祖父・北条時政をはじめとする御家人に判断され、幕政は13人の合議制によって運営されることになった。そのことに不満を持った頼家は外戚である比企能員と実権を取り戻すことを画策したがすぐに露見し、能員は討伐され、頼家は修善寺に幽閉、時を経ずして暗殺されることとなった。


頼家の後を継いだのが頼朝の次男であり、頼家の弟である実朝であった。実朝は政務をとることに熱心ではなく、京風の文化、特に和歌に熱心な人物だったと伝えられており、藤原定家に師事し後世に「金槐和歌集」を残している。実朝の歌に対する愛着はみずからの治世にも影響し、『吾妻鏡』にも「武士の本文は武芸ではなく歌になってしまった」といった内容が書かれるありさまとなった。武家にあるまじき実朝の行動に失望した祖父・時政は将軍就任後すぐに実朝を廃し、新たな人物を将軍に立てようと計画したが、この陰謀には実朝の生母である北条政子と叔父である2代執権・北条義時が反対、時政は隠居に追い込まれることになった(榎本秋『歴代征夷大将軍総覧』)。もっとも実朝は政治家としては有能だったともいわれる(山本幸司『頼朝の天下草創』)。山本によれば、『吾妻鏡』を中心に新調の鎧を損なって護衛に遅れた兵士を見かけの華美さより忠勇を誇れと叱責し、寺社や朝廷に対して御家人の保護者としての幕府の立場を守りつつ巧みに調停する姿が描かれ、時には北条義時の要求すら却下していたという。


雪の幕府


幕府内部の争いはこの間も続いた。1213年には侍所別当の和田義盛と北条氏の対立が表面化、武力衝突を起こし義盛は討ち取られている(和田合戦)。実朝は兄・頼家の忘れ形見・公暁を猶子にしていたが、公暁は実朝を鶴岡八幡宮で襲い、実朝を暗殺した。公暁の「実朝暗殺」の動機はわかっていない。父・頼家の仇を討ったとも、公家化し政務をないがしろにする実朝を北条氏が見限り、何らかの恩賞を公暁に与えることを約束したとも言われているが、直後に公暁が殺害されているので現在も歴史の謎として研究家の想像をかきたてている(榎本秋『歴代征夷大将軍総覧』)。


承久の乱

実朝の死は、当時朝廷で治天の君として全権を手中に収めつつあった後鳥羽上皇にとっては幕府との交渉窓口を失うことになったという。実朝は御家人の所領問題に関しては必ずしも上皇に従順ではなかったが、後鳥羽上皇にとっては頼れる交渉相手であったらしい(山本幸司『頼朝の天下草創』上横手雅敬「公武関係の展開」『院政と平氏、鎌倉政権』)。かくして承久三年(1221年)上皇は北条義時討伐の宣旨を下し、鎌倉幕府を滅ぼす戦に踏み切った。承久の乱である。京方には畿内・美濃・尾張・但馬など14ヶ国から軍勢が集まり(『承久記』)、幕府の京都守護すら大江親広は京方に寝返り、伊賀光季は自殺した。鎌倉の諸将にも京方につくべく使者が送られた。この幕府存亡の危機を救ったのは、北条政子の演説であり、前述の大江広元(大江親広の父)も政子に同調したという。政子によれば、右大将軍(頼朝)の恩は山より高く海よりも深い、名を惜しむなら讒言をなした逆臣どもを討ち取れというのである。この演説は御家人たちの心を結束させたようで、東国15ヶ国の軍勢が攻め上り、義時に味方するものは千人もいないであろうと呑気に構えていた後鳥羽上皇の軍勢を打ち破る(山本幸司『頼朝の天下草創』)。


これ以後の幕府は右大将こと頼朝のカリスマを利用し、実際は北条氏が次第に実権を握っていくことになる。元は伊豆の小豪族に過ぎなかった北条氏であるが逆にそれゆえ頼朝の猜疑を避けて勢力を伸ばすことができたようだ(山本幸司『頼朝の天下草創』)。頼家を引退させた頃には、北条氏は既に御家人の筆頭として最重要機関・政所のトップ(別当)すなわち執権となっていた。侍所を治めていた和田氏の滅亡後は侍所の別当も兼ねて、他の御家人を引き離す権力を得ていたらしい。義時・政子は承久の乱終結後数年で世を去り、執権の地位は北条泰時が継いだ。


得宗独裁の確立

泰時は謹厳実直で謙虚な人であったという。『吾妻鏡』には、幼いころ泰時に無礼を働いて頼朝に叱責された武士を庇ったり、承久の乱で泰時に免罪された公家のお礼を断ったりといった挿話が残っている。評定衆を作って有力御家人の合議による政治を進めたり、先述の御成敗式目のように頼朝の偉大さを称え道理に従った法治主義的な政治を行ったりといった治世にその性格が表れている。御家人たちとの摩擦を避けて調整に努めた泰時の政治は執権政治の全盛期とされ、将軍独裁の鎌倉前期と得宗(北条氏嫡流家長のこと)独裁の鎌倉後期との過渡期の政治であったという(上横手雅敬「公武関係の展開」『院政と平氏、鎌倉政権』)。次の執権北条時頼の代から北条氏の独裁化が進んでいくのである。



時頼の政治は二つの大きな内乱から始まる。まずは宮騒動、将軍の九条頼経が北条一門の名越光時や有力御家人の千葉秀胤と共に時頼を討とうとしたというのである。続いて宝治合戦、頼朝以来の北条家に次ぐ御家人の三浦泰村の一族が滅亡する。これら政敵を討った時頼は将軍とその側近勢力を一掃する。また評定衆やその補佐のために新設した引付衆に北条一門が増加し、守護職も北条一門に集中していく。さらに評定衆が形骸化していき、得宗の私邸での会議(深秘の沙汰と呼ばれた)がこれに代わる。得宗家の使用人筆頭である内管領が侍所所司(次官)として実質侍所を支配する。こうして時頼は得宗家の権力を確立していったとされる(山本幸司『頼朝の天下草創』入間田宣夫『武者の世に』)。京都の九条家や天皇家から招いた将軍(摂家将軍・宮将軍)は若年の少年に限られ、彼らが権力をふるえるだけの年齢に達すると罷免し、京都に送り返すいわば使い捨ての将軍として利用されるようになる。


幕府の衰退、滅亡

こうして得宗専制のもとで幕府権力は安定する。その一方で武士の生活は困窮を極めていく。原因としては当時の武士は後世の江戸時代の嫡子相続とちがい、家産となる田畑を等分に相続することにあった。当然、時を経るたびに武士の家産は少なくなり、生活は苦しくなっていく。幕府はその窮状を打破すべく、借金を踏み倒してもいいという徳政令を幾度も発布した(この悪法は後の室町幕府も踏襲している)。しかし、当然ながら一時しのぎしかならない。そうこうするうちに8代執権・北条時宗の治世、二度にわたる元軍襲来(元寇)を辛うじて退けた幕府権力の地盤は揺らぎ始める。奮戦した地方の武士たちに満足な恩賞を与えることのできなかったばかりか、いつ来るか知れぬ三度目の元の襲来に備えた武士たちの幕府に対する不満は強まることになり、1333年、後醍醐天皇の倒幕運動に呼応した新田義貞足利尊氏らに鎌倉及び京都の出先である六波羅探題を攻略され滅亡した。


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