概要
1956年以降の冷戦期の中華人民共和国とソビエト連邦が対立していた外交関係。
対立の始まり
アメリカ合衆国とソ連の対立は第二次世界大戦以降に冷戦となって発生し、中国とソ連は同じ共産主義陣営の共産主義国家としては協力し、1950年に中ソ友好同盟相互援助条約も結ばれていた。
しかし、1956年にソ連でヨシフ・スターリンの後継者となったニキータ・フルシチョフはスターリンの独裁政治や権威主義、個人崇拝を否定する「スターリン批判」を展開し、西側陣営との平和共存論も提唱した。これに対し中国の毛沢東はフルシチョフの考えを「修正主義」と批判。それまでスターリンと独裁者仲間で親しかった毛沢東だったが、「スターリン批判」での独裁否定の影響が自国に及べば、自身の独裁政治にも国内から批判が起こると恐れていた。
これ以後、国家規模で中ソは共産主義思想の方針不一致へと発展し、両国の交流の断絶や条約破棄など続出。同じ陣営でありながら対立する関係となった。
これにより、それまでの「米ソ冷戦」という二極対立の構図が、中ソの不和によって複雑な多極化へと変わって行った。
継続する対立
中国はその後もキューバ危機やプラハの春などでのソ連の行動を批判。1969年には国境沿いの川の島を巡って中ソ国境紛争が発生。同じ陣営同士での核戦争の恐れも起こった。
ベトナム戦争でアメリカが南ベトナム支援に参戦すると、中ソも北ベトナムを支援したが、協力はせず、支援合戦の状態になった。
そんな中で、中国はソ連を牽制すべく1970年代に西側陣営の盟主たるアメリカに接近し、1971年には国際連合で中華民国に変わって常任理事国に収まり、1979年に米中は国交正常化した。しかし、米中接近によって北ベトナムは友邦が敵国と関係改善したことで、北ベトナムの外交は親ソ派になり、1975年に北ベトナム勝利で統一を果たした。
カンボジアで恐怖政治をするポル・ポト政権をベトナムが攻撃し、独裁政権を終わらせたが、親中派のポル・ポトと親ソ派のベトナムが戦う東側陣営同士の代理戦争の様相を呈した。この事態に、中国はベトナムを支援の恩を裏切ったと見なしてベトナムに侵攻する中越戦争が発生。これをベトナムは返り討ちにした。
対立の鎮静化
1980年代に中国で経済立て直しのために鄧小平が改革開放路線を進め、同時期にソ連のゴルバチョフもペレストロイカを始めた。この両者の時代になって関係改善の努力がとられ、1989年5月にゴルバチョフの訪中により30年ぶりに中ソは国交正常化させた。
丁度、中国では天安門事件が起きている最中だった事やソ連は崩壊寸前である事が出ていた。
対立の影響
共産主義陣営ではほとんどの国が親ソ派だったが、アルバニアは数少ない親中派で、国連で中華民国を追い出した国でもある。しかし、毛沢東死後はアルバニアと中国の関係は敵対し、アルバニアは孤立してしまう。
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は中ソの関係や両国の内情を見て、双方ともに等距離の友好関係を築き、また思想方針も金日成が提唱した独自路線「主体思想」を中心とした。ルーマニアも中ソ双方と友好関係を築きながら、西側に接近して支援金を引き出した。
その後の中露
ソ連は1991年にクーデター失敗からソ連崩壊し、ロシア連邦に変わり、冷戦も終結。エリツィン政権時の不況となり反米感情も強まり、プーチン政権時代に資源開発や軍拡など超大国への返り咲きを進めた。ブッシュ政権時のアメリカとアフガニスタン紛争やイラク戦争で対立。ウクライナへの圧力を強めた。
中国は市場経済を導入しながら中国共産党の一党独裁を続ける国となり、江沢民政権時の香港返還を前後して経済発展が進み、国内に格差社会が広がるが、軍拡で極東・東南アジアへの覇権拡大を進めた。
この中露の動きにオバマ政権のアメリカは欧州方面・アジア方面と両面で権勢するが、2010年代から起こったリーマンショックやアラブの春、ISの活動に乗じ、胡錦濤や習近平の中国はさらに海洋進出を拡大させ、ロシアはシリア内戦に打倒ISとしてアサド政権側になって参戦。また中東で台頭するイランと中露は関係を強化してアメリカを牽制。
中露はかつての中ソ対立から一転して対米国家として関係を強化・協力し、BRICSを構成する国の一つとなっている。