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就職氷河期の編集履歴

2020-07-18 09:49:49 バージョン

就職氷河期

しゅうしょくひょうがき

就職難が続いた時代。通常は1990年代以降の就職難を指す。この時期に学校を卒業し社会へと出た人々(氷河期世代)は今も苦難の道を歩んでいる。

就職氷河期

バブル景気が終焉を迎えた1990年代中盤から2000年代まで続いた就職難の時代。概ね1993年卒から2005年卒を指す。

この時代に社会に出た世代の人々を氷河期世代(あるいは「失われた世代(ロスト・ジェネレーション/ロスジェネ)/棄民世代(廃棄世代/スクラップド・ジェネレーション/棄てジェネ/すてジェネ)/奪われた(棄てられた)世代」など)と呼ぶ。


特に1998年卒以降は「超・就職氷河期」と言われ、多くの企業は採用を極度に絞り、一部の業界や上位企業に至っては採用そのものを停止させ、高卒・大卒を問わず新卒者はなかなか就職できなくなった。この時期に社会に出た1970年代後半〜1980年代初めの生まれの人々は筆舌に尽くしがたい辛酸を舐めることになった。2003年の新卒就業率は55.1%。高校大学を出た人の半分近くは就職できなかったのである。


当時は「即戦力の学生しか採らない」という日本語にもなってない破綻しきった矛盾(※)を堂々とドヤ顔で声高に口にする人事担当者がおり、世間一般にも「その言葉を出せる事こそが一流企業の証」であり「有能な若者なら越えられるハードル」なのだとうそぶく社長・会長・CEOが雨後の筍の如く湧いて出た時代で、国立大学早慶のような全国に対して名にし負う難関大学の出身者でも就職に失敗し派遣社員フリーターになる人も数多く出た。また、これの回避のために大学院生となった者もいたが、そんな彼等を待っていたのはオーバードクター問題であった。院まで行ったことを理由に一般企業では敬遠され、大学に残ろうとしても枠が無く、やむなく臨時雇いの助手職で食い繋ぎ、結局あえなく派遣化・フリーター化する(院に行ったこと自体をムダとして否定された)という事例も多発した。

何とか新卒で正社員になれたとしても、自分の適性や専攻と異なる分野の仕事に就かざるを得なかった者や、その後でも試用切り派遣落とし派遣切りなどに見舞われて短期間で離職を余儀無くされる者が多かった。

すんなりと離職できればまだ良い方で、ブラック企業に心身を害され自殺に追い込まれたり、それを免れて離職できてもニート化してひきこもり廃人となった者も少なくない。(→子供部屋おじさん/8050問題)

そして離職歴という「バツ」がついた彼らを待ち受けていたのは、それを理由に採用を嫌い敬遠し、彼らを見捨て続ける社会だった。


  • ※これは言うなれば「おつかいの経験のない遊び盛りの小さな子供に『場所の離れた複数の店舗へ何品もの買い出しに回らせた上で指定時間内に必ず帰ってくること』を求めている」あるいは「床上手な処女」という無理難題に等しい条件である。
    • 社会経験のない新卒社会人に、いきなり社会の「理不尽」という洗礼に適用して業績を上げさせるなど、まず適切な指導者の下で十全に経験や学習を積ませないと不可能な話なのだが、一刻も早く不況のダメージを癒したい企業側は従業員の育成を「時間の浪費」と断じ、目先の損益に固執するようになってしまった。

これだけの就職難でありながら当時はいわゆる新自由主義吹き荒ぶ小泉純一郎政権であり、定職に就けない学生、求職者たちに対して政府は何ら支援策、救済措置を講じることなく、彼らを「自己責任」の名の下に切り捨ててしまったのである。

一方のマスコミもまた、この事を批判しなかった。むしろ派遣社員フリーターフリーランスをことさらに新たなる生き方、新時代のライフスタイルと(そのデメリットを隠して)持ち上げまくった(この時期に放送していたドラマ「ハケンの品格」がいい例)経緯があり、その過去を肯定し続けて責任から逃れたいがために政府の放つ「自己責任」を状態が深刻になるその時まで、支持し続けた。

それ故に氷河期世代は自分たちより上の世代や政治家(主に政権担当をしていた自民党やそのブレーンたる竹中平蔵)、ひいては国そのもの、さらには社会そのものに対して強い恨みを持つものも多い。実際、この苦境を背景にして衝撃的な暴力事件(いわゆる「通り魔行為による巻き添え殺人」など)を起こした事例も散見されている。

さらには2020年の新型コロナウイルスの流行で様々な業界が青色吐息になり、国に対して支援を求めるようになった時、Twitter上でとある氷河期世代の人物が「自分は各業界に対して国が支援を行うべきでは『ない』と考える。自分たちは国から自己責任の名の下に切り捨てられた。ならば新型コロナウイルスで潰れるのも自己責任である。」という旨の発言をして話題になり「肯定はできないが気持ちは痛いほど理解できる」などの感想が寄せられた。

それゆえ、国から自己責任と言う名の暴力(あるいは世代に対しての社会全体による虐待行為、ないしは上の世代による下の世代全体に対する集団詐欺行為)を受け続けた彼らが日本の支配者層になったとき何が起こるかわからないとも言われている。(一般的に虐待も詐欺も「再生産されやすい」すなわち「被害者の加害者化」が発生しやすい傾向にある)


2007年団塊の世代定年退職の時期を迎え始めた。これにより、2006年から悲惨を極めた就職戦線はようやく回復。就職難の時代にはいったん一区切りがつく。氷河期世代の中には、この時期に第二新卒(疑似新卒)として再就職を成功させた者もいる。

ただ、たとえ疑似新卒としての立場を得たとしても現役の新卒の方が優先されたのは(当時としては)当然のことで、この時期に再就職を成功させた例というのは、就職氷河期の総数からしてみればごくごく僅かな限られた層にしか過ぎなかった。そして、こうして就職できた幸運な層に対しても「即戦力」と「自己責任」の呪いと、試用切り・派遣切りの問題は不可分の両輪としてついて回り続けている。結果として世代を切り捨てる問題は全く変わることなく、この世代を襲い続けた。


就職氷河期の影響は約10年後の2010年代に中堅社員の空洞化あるいは企業教育システムの崩壊という形で企業に返ってくることになった。しかし、この問題に対しては多くの事例で定年者の嘱託再雇用および定年の延長という形で解決するケースが多く、ノーダメージで済ませる企業も少なくない。


しかし、これからの2020年代。この問題の影響は「社会保障費用(特に氷河期世代の生活保護と団塊世代の老齢年金支給)の圧倒的な増大」のみならず「(他ならぬ氷河期世代の全体収入が低く安定していない事を原因とする)その社会保障費用の財源の不足」、さらには「世代間格差および確執」に「少子化のさらなる悪化」「無敵の人の増加による治安の悪化」など、さらに深刻化する事が見込まれている。

この状態にさすがの社会も重い腰を上げようとするも、その対策をもってしても前後の世代と、氷河期世代を比較した場合においての格差は埋まりようが無く「今更なにもかもが遅すぎた」という絶望の声も上がっている。

自己責任として氷河期世代を叩いてきた社会に対して、氷河期世代を生み出してしまったこととそこから生じる多くの社会問題が自己責任として社会にブーメランのように返ってくるというのはなんとも皮肉な話である。

しかし、このブーメランをガチに返されるのは氷河期世代を叩いてきた者たちではなく、そうした者たちの子どもたちであろう点も、この問題のこじれによる、救われなさと難しさを示している。

一方で、この問題を産み出した者たちはさっさと楽隠居して責任を問われても、もはや届かない場所へと逃げており、批判をすれば、むしろしたがわが「老人にムチを打つのか!」との逆非難の対象になりかねない始末となっている。

もはや虚しい言葉だが、本当にどうしてこんなになるまで放っておいたんだとしか言えない。


新就職氷河期

2010年卒から2012年卒まで。第二次就職氷河期ともいう。2000年代後半にいったん好転した就職戦線は2008年リーマンショックで暗転する(リーマンショックは2009年卒の就活がほぼ終わった時点での発生だったが、「新卒切り」などの影響はあった)。2010年大学卒業者の就職率は60.8%まで急減した。


もっとも、新就職氷河期の襲来は短期間で終わり、2011年の東日本大震災後は景気も緩やかに回復に向かい、2014年卒以降は一転して「売り手市場」になる。第二次就職氷河期時代に社会に出た人々は「氷河期世代」には含まないことが多い。


一方、この頃になると本来の就職氷河期の面々、特に派遣やフリーターで食い繋いでいた層にとっては、氷河期当時すら生易しかったと言われた派遣切り・雇用切りの暴嵐に悩まされた。

リーマンショックを理由に切られた彼らは年越しすらもおぼつかない状況に追い込まれ、これを救済するために有志によって避難シェルターとなる派遣村が開かれるなど、大きな社会問題にもなった。しかし、派遣村のスタートが有志である事からも解るように、世間はこの事態に対して、なおも「自己責任」を掲げて冷たい反応をとった。むしろ派遣村に対しては理解の声もあった反面で「自分を自分で見れないものをなぜ助けねばならぬのか」といった否定と批判の声もまた理解を上回る勢いで多大に立ち上った。

上述のようにリーマンショックの影響は短く終わり景気も緩やかな回復を見せたが、それで派遣切りをされた人々が元のポジションに戻れたかというとそんなことはなかった


リーマンショックの派遣切りで空いたポジションには「世代交代」の名の下に新就職氷河期の世代が滑り込む事も多く、その結果として本来の就職氷河期の世代は、さらに雇用や社会から弾き飛ばされる苦境に追い込まれた。


新型コロナウイルスショック

2020年3月、緊急事態宣言となったSARS-Cov-2によるCOVID-19パンデミックにより、この年の新社会人の多くが企業によって就職の延期・中断の憂き目に晒されてしまう。

中には高倍率・難関の就職希望を掴んだ矢先に、コロナショックで内定取り消しという、振り出しに戻されるよりもつらい現実に叩きつけられた若者も少なくない。

さらに企業説明会やインターンシップ採用の中止も続々と決定し、就活生の大多数が来年の就職に対するハードルは格段に跳ね上がることが予想されている。


もちろん、この事は就職氷河期世代にも直撃しており、やっと支援に重い腰を上げた社会に対して、その動きを鈍化させる事態になっている。

そして氷河期世代からは、ついにこんな言葉が出るようになる。「ああ『また』か…」と。様々な意味での諦観を含むこの一言は、まさにこの世代を生きている者の実感ともなっている。

抱いた夢も希望も積んだ努力も受け入れた生き様も、なにもかもが無意味で無駄な徒労に終わっているこの世代だからこそ前述した悲痛な「コロナ禍も自己責任」の言葉も出るし「振り出しに戻されるよりもつらい現状」も「そんなものは当たり前の事だ」と冷笑し「自分たちはもっと辛いけども誰も助けてくれはしなかった(から、君らも助けなんか期待せず、たとえ社会に生け贄として擂り潰されてもそれを受け入れろ)」としてしまう。上述のように、そんな、この世代を待つのはさらなる地獄と見えてしまっている。


企業側も就活生の募集方法や、説明会の手法に新たな手法と対策に迫られる事態となり、これまで通りに新卒優遇で採用という贅沢を言っていられない状況に立たされている。それが中途就職者、特に経験の機会を奪われ続けている氷河期世代ともなれば、なおさらなその境遇はもはや言うまでもない。

結局のところ採用基準の変革も迫られており、今までのようにただ就職者を漫然と受け入れるだけの時代は、徐々に変化しつつあるという。

しかし、ほとんどの就職氷河期世代はそこに希望を持てない。彼らは今日もその変化を眺めながら呟いているかもしれない。

「ああ、またか……」と。


しかし「それでも」容赦なく時は過ぎ生は続く。

ならば少しでもここに「何か」を求めるならば、せめて「それでも」と言い続けるしかないのかもしれない。


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