概要
ダームストラングとは『ハリー・ポッター』シリーズ及び同じ世界観を共有する作品群に登場するダームストラング専門学校の略。
魔法世界における魔法学校の一校であり、『ハリー・ポッター』シリーズ第四巻、炎のゴブレットで実施された三大魔法学校対抗試合(トライウィザード・トーナメント)のために生徒と教師がホグワーツにやってきた。
「専門学校」と松岡訳されているため、日本でいう専門学校をイメージする読者が多いが、英語のInstituteにぴったり合う訳がないので「専門学校」という言葉を使っている(正確には単科大学だという説もあるが、カルカロフの肩書きは原作の時点でheadmaster「校長」であり、大学ではないことが示唆されている)だけで、実態はだいぶ違う点には注意が必要である。
日本語 | ダームストラング専門学校 |
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英語 | Durmstrang Institute |
学校の特色
歴史
遅くとも1294年には存在していた由緒ある学校。
創設者はブルガリア出身の魔女のネリダ・ヴァルカノヴァ(Nerida Vulchanova)だが、謎の死を遂げている。
後任のハーファング・マンター(Harfang Munter)が二代目の校長となって以降、後述の決闘や闇の魔術などのカリキュラムが積極的に取り入れて支配下に置き、ダームストラングは悪しき分岐点を迎えることとなる。
学校の形態
国際魔法使い連盟に登録済みの11の由緒正しい魔法学校の一校。
全寮制で、留学生を積極的に受け入れており、確認できる中でもイギリスやブルガリアからも生徒が留学し、寮生活を送ることが可能。
しかし、魔法族の中で両親がマグルであるマグル生まれの魔法使いおよび魔女の入学だけは認められていない。
映画版では男子生徒しか描かれていなかったが、実はれっきとした共学校。
カリキュラム
カリキュラムは闇の魔術に対する防衛術のみならず、闇の魔術を学ぶことでも知られる。
また、戦闘魔法と決闘がカリキュラムとして今日まで重視されている。
また闇の魔法使いゲラート・グリンデルバルドを輩出した母校であることからも悪名が高く、元死喰い人のイゴール・カルカロフが校長になっている。
しかし、当時のダームストラングはゲラートを中退させており、ビクトール・クラムのような良識的な生徒も存在するなど、決して悪の牙城というわけでもないようだ。
所在地
学校の所在地はスウェーデンもしくはノルウェーの最北だが詳細は不明。
ダームストラングにはホグワーツ魔法魔術学校と同じように城があるが、ホグワーツ城ほど大きくはない。
城は4階建てで、魔法の目的においてのみ火が灯される。
湖や山に囲まれ、広大な土地を持つこの学校の所在は他校のそれよりも厳密に秘されている。
訪問者は皆たいていこの学び舎から臨める雄大な景色と、裏手の山の湖に停泊する巨大な幽霊めいた船のことを強く記憶するが、どうやってそこに辿り着けるのかはまったく覚えていない。忘却呪文は学校の所在の秘密を守るという重要な役割を果たしている。
制服
寒冷地に在する学校にふさわしく、生徒たちは毛皮の外套に毛皮の帽子、深紅のローブを着ている。
映画版
キリル文字 | Институт Дурмстранг |
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生徒はみな丸刈り、軍服のような制服を着ており、三大魔法学校対抗試合の歓迎会では見事なダイナミックな演武を披露した。寄宿学校を思わせるホグワーツとは対照的な士官学校風。
原作では存在した女生徒は描写されず、男子校のように見える。
校章に双頭の鷲とタマネギ型ドームを用いたり、学校名のキリル綴りを表示したりと全体的にロシア風の印象を覚える意匠となっている。
ちなみにロシアの魔法学校は別に存在することがWonderbook: Book of Potion(原作者が製作に携わったたった2つのゲームの内の1つ)で確認されているため、このようなロシア風の描写は画としての分かりやすさを強調した映画制作陣によるものだと思われる。
三大魔法学校との交流
イギリスのホグワーツ魔法魔術学校並びにフランスのボーバトン魔法アカデミーとはヨーロッパ三大魔法学校と呼ばれ称される。
三校はいずれも国際魔法使い連盟に登録済みの由緒正しい魔法学校に数えられており、三校の交流として過去に幾度か三大魔法学校対抗試合(トライウィザード・トーナメント)を実施してきた。
特に『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』で約二百年ぶりに実施された三大魔法学校対抗試合を通じて生徒同士が交流をし、この交流を切っ掛けに結婚した者、成人後も友情を結び続ける者などがあらわれた。
三大魔法学校対抗試合
三校からそれぞれ代表選手を一人ずつ選出し、選ばれた代表選手三名たちは魔法能力、知力、勇気などを図る三つの課題に挑戦し、審査される。
最初の対抗試合は12世紀後半ないし13世紀頃に実施された。
対抗試合はその並外れた危険性で有名であり、試合中に代表選手たちの死亡事故が相次いだために安全の観点から1792年に中止された。
しかし1994年、安全を考慮した新しい制限を設けた状態で約二百年ぶりに対抗試合が再開されることとなった。
この制限とは魔法社会における成人、17歳を迎えた者(ホグワーツでは7年生と誕生日を迎えた6年生)のみが代表選手に立候補できるというものであった。
ダームストラングは代表選手になり得るビクトール・クラムをはじめとした生徒たちを連れて巨大船でホグワーツの湖に現れ、滞在中はスリザリン寮の席に混じっていた。
しかし、対抗試合はヴォルデモートと彼の配下のバーテミウス・クラウチ・ジュニアの暗躍により、当時未成年のハリー・ポッターが第四の代表選手に選出された上に、ホグワーツ代表のセドリック・ディゴリーがヴォルデモートの復活によって命を落とすという悲劇に見舞われた。
ホグワーツのみならず三校の生徒たちから慕われたセドリックの死によってこれ以降対抗試合は開催されていないものの、セドリックを喪った悲しみを共有した者たちの友情は長く続くこととなった。
主な関係者
教師
生徒・卒業生
- ゲラート・グリンデルバルド(退学処分)
- ビクトール・クラム
名前の由来
ダームストラング(Durmstrang)はシュトゥルム・ウント・ドラング(Sturm und Drang)の語音転換である。
シュトゥルム・ウント・ドラングとは18世紀後半にドイツで見られた革新的な文学運動で、古典主義や啓蒙主義に異議を唱え、理性に対する感情の優越を主張し、後のロマン主義へとつながっていった。
シュトゥルム・ウント・ドラングは日本では『疾風怒濤』と翻訳されているため「嵐と大波」というイメージが強いが、ドイツ語から直訳するならば「嵐と衝動」である。