紀元前から中世前期
現代のドイツにあたる地域は、紀元前にライン川の東からエルベ川に至る森林地帯にゲルマン人と呼ばれる人々が居住しており、ゲルマニアと呼ばれていた。多くの部族に分れていた彼らは度々西方のガリアへの侵入を繰り返し、ついにローマ帝国と対峙する事になったが、交易などの交流も続いた。
やがてローマ帝国の弱体化に伴い、多くのゲルマン人が傭兵などとして西方へ移住した。4世紀にはさらに東方からの民族移動がきっかけとなって、後に「民族大移動」と呼ばれる大移住が行われた。ゲルマニアには多くの部族が小国を築き、フランク人・ザクセン人・アレマン人・バイエルン人に概ねまとまるが、それ以上の後のドイツ人に相当するような民族意識は無かった。やがてカール大帝がこれらの諸国とガリア、イタリアに至る広大な領土をフランク王国へ統合した。これが9世紀に分裂し、東のゲルマニアには中世の東フランク王国を経て、後の神聖ローマ帝国が形成される。
現在の国名「ドイツ」にあたる言葉はフランク王国時代には"theod"、「民衆」を意味する語であり、当時はラテン語を理解しない庶民という程度の意味でアルプス以北の諸族を指した。これが後に変化し形容詞化して"deutsch"(ドイツ)という語に変わっていき、中世の長い年月をかけて少しずつ自称としても地域名になっていく。だが、国名となるのは、ほぼ近代まで時代を下る事になる。
中世後期
それまでスラブ人が住んでいたエルベ川東岸地域にゲルマン諸族の植民が進み、次第に現代のドイツに至る領域が形成されていく。それを支配する神聖ローマ帝国の皇帝は、肩書きとしてはローマ教皇に認められたキリスト教世界最高位の世俗君主とされていた。しかし建国から長くゲルマニア諸国の君主達によって選出される存在であり、帝国は各地領主の権力が非常に強い諸侯領の寄せ集めに過ぎなかった。
歴代の皇帝は諸侯の力を削ごうと努力したが、帝位の承認などの強い権限があるローマ教皇との対立抗争、形式的には「ローマの皇帝」である皇帝がイタリアへの介入を重視しゲルマニアを軽視したこともあって、ドイツの国家形成は進まなかった。ようやくオーストリアのハプスブルク家が皇帝の世襲化に成功する。また前後して皇帝の称号の一つに「ドイツ人の皇帝」という語が含まれるようになる。
しかし、プロテスタント勢力の勃興を発端とする宗教戦争・さらに周辺国に巻き込まれた30年戦争を機に、皇帝の権力が低下して国家としての実態はさらに失われ諸侯が乱立しているのとそう変わらない状態となってしまう。
近世から近代へ
こうした状態の中、後にドイツ人地域の覇権を巡って争うことになるオーストリア帝国とプロイセン王国が台頭した。プロイセンは北東部を中心に、オーストリアは南東部を中心にまとまりを見せながら対立を深めていく。ナショナリズムによる強力なフランス国民軍を率いたナポレオンの侵略を受けて神聖ローマ帝国が瓦解した後には、これに対抗しうるナショナリズムを掲げてのドイツ統一運動が始まった。
1871年1月にオーストリアとフランスに続けて勝利したプロイセンが、ドイツの統一を実現してドイツ帝国を建設する。この頃のドイツは重工業の一大発展を遂げて列強の1つと見なされるも、当時のヨーロッパの中では植民地獲得に出遅れて後に欧州諸国との軋轢を生むきっかけとなる。そうした軋轢から始まった1914年7月から1918年11月まで続いた第一次世界大戦に敗北し、ドイツ帝政は廃止された。
現代への動き
ドイツは民主制のワイマール共和国体制となるも、戦勝国側による戦後処理に著しい不備があった上に、世界恐慌をきっかけとする大不況の中で民主制は機能不全に陥る。また共産党とナチスという民主主義を否定する立場の政党が、現状への不満を吸収して議会を左右するようになり、議会の機能停止を受けて大統領命令で実質的な政治が動くようになった。
1933年1月にヒトラー率いるナチスがヒンデンブルク大統領の信任を得て台頭した。モータリゼーションや再軍備政策などによって深刻な経済状況をある程度立て直すものの、強大な恐怖政治を行使し、ドイツの生存圏の東方拡大を掲げイデオロギーとしての第三帝国を宣言した。ポーランド・チェコを侵略し、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連と対立して第二次世界大戦を引き起こすも敗北した。
1945年9月の終戦後は冷戦体制下で上記4カ国軍による占領により、東方の領土を大きく失った上で国土は西ドイツと東ドイツに分断された。ベルリンの西側占領地域である西ベルリンは東ドイツの領内に取り残され、ソ連の圧力などもあって東ドイツが建設した壁に囲まれる。その後ソ連の弱体化と東側諸国の民主化運動が進み、1989年11月にベルリンの壁が崩壊し、1990年10月にドイツ連邦共和国として再統一を果たした。