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概要

  • 生誕:1431年11月10日 - 1476年?

15世紀ルーマニアのワラキア公国の領主。

諸侯の権力が強かったワラキア公国において、中央集権化を推し進めてオスマン帝国と対立した。

串刺し刑を好む苛烈な性質から『串刺し公』の異名をもち、自らは「竜の子(ドラキュラ)」と称した。

後世に様々な汚名を着せられた末に「吸血鬼ドラキュラ」のモデルとされるも、近年では「護国の鬼将」として再評価が進んでいる。


日本ではしばしば「ヴラド・ツェペシュ」と表記されるが、「ツェペシュ」は姓ではなく、ルーマニア語で「串刺しにする者」を意味し、「竜の息子(父ヴラド二世は竜騎士だった)」を意味する「ドラキュラ」と同様にニックネームである。

ブラム・ストーカーの小説『ドラキュラ』に登場する吸血鬼ドラキュラ伯爵のモデルの1人として知られている。


人物

ドラキュラ

ヴラドの父の異称「ドラクル公」に端を発する。ドラクル【Drăcule】とはルーマニア語で「ドラゴン【Dragon】」の意であり、これは彼が時のハンガリー王・神聖ローマ帝国皇帝のジギスムントが中心となり対オスマン帝国を目的に結成された騎士団、『ドラゴン騎士団』の団員であった事に由来している。(ヴラド自身も後にドラゴン騎士団に加入している)

そのドラクル公の息子である事から、ヴラド自身もドラクルに眷族を暗示する「~a」を付けて『ドラクレア【Drăculea】』、即ち英訳で「ドラキュラ【Dracula】」と呼ばれるようになったのである。日本語的に表わせば【小竜公】と表わせる。

存命時は「ツェペシュ」よりも「ドラキュラ」というニックネームの方が多く用いられたのではないかといわれている。本人筆と思われるサインにも「ヴラド・ドラキュラ(Wladislaus Drakulya)」と書かれたものが存在するため、ドラキュラというニックネームは本人も好んで使用していたと推測されている。

ただドラゴンはキリスト教においては魔王サタンの象徴であり、「絶対悪」の体現とされ、それゆえに【悪魔公】という後ろ暗いイメージも付きまとった。このことが後世、ヴラドを“悪魔的な怪人物”・“残虐非道な独裁者”といった、過剰なマイナスイメージを捏造させる結果を生んでしまう。


串刺し公

ワラキア領内での粛清はオスマン帝国軍のみならず自国の貴族や民も数多く串刺しにして処刑したと伝えられていることから。串刺し刑は重罪を犯した農民に限られたものであったが、しかし彼は、たとえ貴族であっても反逆者は串刺しに処して、君主の権威の絶対性を表そうとしたと考えられている。

また貴族を酒宴に招いて虐殺した、貧民や病人や浮浪者のような国益にならない者を集めた家に火を放ちまとめて焼殺し「世のクズ共を一掃できたぞ!」と狂気したなど、非道なエピソードが多く残されている。


オスマン帝国では同様の意味を持つ「カズィクル・ベイ」(【Kazıklı Bey】{カズィクル=串刺し/ベイ=領主})の異名で知られた。

残虐ぶりは大国オスマン帝国相手にも変わらず、使者が帽子を取らないのを無礼であると咎め、使者がオスマン流の作法であると反論すると「ではもっと礼儀正しくしてあげよう」と帽子ごと頭にくぎを打ち付けて殺してしまったという。

特に1462年の戦いでメフメト2世の本隊と激突して取り逃がした際、捕虜となったオスマン兵を軒並み串刺しにして城塞の外に晒し物にし、城塞への再突撃を決行しようとしたメフメト2世の戦意を根こそぎへし折った


──どんな人間も私は恐れまい。だが、悪魔(ドラクル)だけは別だ。──

後年、メフメト2世はそう語ったといわれる。


また積極的に焦土作戦を展開し、オスマン帝国軍の物資の略取を阻害し、領内への停留を防止した。


キリスト教圏の維持と自領の安寧に苛烈なまでの戦い、正教会の信徒でありながらカトリック教会側からもその活躍が絶賛されている。


略歴

ワラキア公ウラド2世竜公(ドラクル公)の次男として生まれる。

少年時代にワラキア公国がオスマン帝国に従属した際に、実の弟のラドゥと共に帝国の人質となり、そこで軍事指揮官等の教育を受けた。

オスマン帝国、ハンガリー、ポーランドという列強国に囲まれ、その思惑に沿って王位に即したものの、それら強権者の意図に抗うように、ワラキアの中央集権を推し進めていったとされる。

そしてオスマン帝国が東欧に触手を伸ばしはじめると、その防衛者の一角として勇猛に戦ったとされる。

1462年ワラキア公国首都トゥルゴヴィシュテに迫っていたオスマン帝国軍を率いるメフメト2世を暗殺すべく、夜襲を決行する。これがトゥルゴヴィシュテの夜襲である。だがオスマン帝国軍のイェニチェリとの激しい攻防の末、メフメト2世の暗殺は失敗し、夜明けとともにワラキア軍は撤退。メフメト2世はオスマン軍をトゥルゴヴィシュテの城に進軍させた。

このとき城に踏み行ったオスマン皇帝のメフメト2世が見たのが有名な“串刺しの林”であり、これを見たメフメト2世はあまりの凄惨さに戦意を喪失して撤退したという。

だがこのオスマン軍の進軍にて当時の妻であったポーランドの王女アナスタシア・マリア・ホルシャンスカがポエナリ城から投身自殺してしまう。一説によると、迫りくるオスマン軍に捕まるよりかは死んだほうがマシだ、言われている。若しくは当時のヴラド3世の愛人、トランシルヴァニアのドイツ系商人の娘カタリーナ・シーゲルに嫉妬し自殺したとも言われているが、前者の説が有力とのこと。


だがこのオスマン軍との攻防戦の後メフメト2世がヴラドの弟・ラドゥを唆し、反ヴラド派の貴族を結託させてヴラドを領主の座から蹴落としてしまう。さらにトランシルヴァニアに落ち延びたヴラドだったが、弟の件を理由に「オスマン帝国への協力者」として造反の汚名を着せられて逮捕され、12年もの幽閉生活を余儀なくされた。


長きに亘る幽閉生活から解放されると、正教会からローマ・カトリックへと改宗し、ハンガリー王・マーチャーシュ1世の妹を妃に貰い(幽閉生活からの解放の条件だった)、ワラキア公として復帰する。しかし東欧正教会の勢力の強いワラキアでは、ヴラドの突然の改宗に批判が集中し、かつての求心力を失ってしまう。

その後1476年、復権して間もなくオスマン帝国との戦争に突入し、戦死したとされる。


ハンガリー王との関係

ハンガリー王マーチャーシュ1世、及びその父フニャディ・ヤーノシュとの関係は非常に複雑であった。

ヤーノシュはかつてヴラド三世の父ヴラド二世に捕まっていた時期があり、また二世はヤーノシュの刺客によって暗殺されたという説がある。

そのような因縁がありながらも、三世は一時期ヤーノシュの元に留まっていた事もあり、彼がワラキア公に返り咲けるよう支援し、対オスマン同盟を結んだ。

マーチャーシュはその同盟を引き継いだが、上述の通りマーチャーシュは国を追われたヴラドを捕まえて幽閉した。

当時はオスマン帝国の脅威に対して十字軍を結成するべきだという声があった。その矢面に立たされそうになっていたのは対オスマンの最前線であったハンガリーであり、これを嫌がったマーチャーシュはヴラドの悪評を広く喧伝することで十字軍結成を回避したのである。

幽閉とは言ってもある程度の自由は許されており、時にはマーチャーシュと食事をともにする事もあったという。

フニャディ・ヤーノシュはヴラドと並び対オスマンの英雄として讃えられており、マーチャーシュ共々ハンガリーの国民的英雄と言われている。


評価

ブラム・ストーカーの作品により、怪人・悪魔扱いが深刻化したこともあったものの、近年では「苛烈だが国内の統制と対侵略勢力に尽力した英雄」と再評価が進んでいる。これは、現実に残っている資料の多くはマーチャーシュ1世のプロバガンダやそれに則した逸話が多分に混在しており、正当な評価が為されているとは言い難いという面もあるため。

捕虜を串刺し、厳格な法と王権を以て中央集権を推し進めた在り方が、それに反発した貴族や諸侯の反感を買って史料の改竄に拍車をかけたとも考えられる。また彼の顔は、のちにカトリック美術における“悪人の顔の典型”として汎用されているが、これもカトリック側が正教会側の王侯を負かし、政治的な圧力もあってだがカトリックに改宗させたことの見せしめの意図が読める。

この証左として、東欧で見つかった当時のパンフレットでは、カトリック教会への改宗を非難こそすれど、捕虜の串刺しや国内での犯罪の厳罰化については、むしろ肯定的な評価で文面に綴られているという。


幽閉中は手慰みに刺繍や編み物を嗜むといった、繊細な一面を覗かせる逸話もある。94年10月に放送されたTV番組「知ってるつもり?!」でヴラド三世が取り上げられた回では、堺正章から「串が好きなんでしょ。(編み棒で)刺すのが(笑)」とコメントされていた。

その他、治安の目安として水飲み場として知られる泉に金の杯を置き、それが盗まれるか否かで国民の倫理観や国内の情勢を推し量ったり、盗難被害にあった商人の陳情を聞いて犯人を見つけ出し(無論殺害)、こっそりと商人のカバンに余計な金銭を入れて正直に商人が申し出ると笑って褒めたというユニークな逸話も残っている。


いずれにせよ、正当な評価が現状では難しい人物とされている。


本人もしくは名前が登場する作品

※()はその人物とヴラド・ツェペシュとの関係


外部リンク

wikipedia

https://ro.m.wikipedia.org/wiki/Vlad_%C8%9Aepe%C8%99


関連タグ

ワラキア ルーマニア ドラキュラ 吸血鬼


苛烈な性質、文化に精通する繊細さ、後世での好悪分かれる評価、「魔王」の仇名を気に入ったエピソードなど、以外にも多くの共通点が見られる。


ヒューマンバグ大学に登場する北欧の拷問ソムリエ。本物のワラキア貴族の末裔の経歴を持ち、先祖の活躍に敬意を表すため外道の処刑は串刺し刑のみを採用している。

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