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概要編集

本名:エイブラハム・ストーカー(1847年11月8日~1912年4月20日)


19世紀に活躍したアイルランドの作家。

怪奇小説吸血鬼ドラキュラ』で知られ、ミイラを扱った『七つ星の宝石』や幽霊屋敷を扱った『判事の家』等、長編短編をいくつか残している。


コナン・ドイルオスカー・ワイルドとも親交があった。

俳優ヘンリー・アーヴィングマネージャーとしてドイルの戯曲ウォータールー』の上演権を買い取った事から親しくなり、ドイルは『吸血鬼ドラキュラ』を称賛する手紙を送っている。ドイル作の『サセックスの吸血鬼』(短編集『シャーロック・ホームズの事件簿』収録)は『吸血鬼ドラキュラ』から着想を得たものと思われる。

ワイルドとは学生時代からの友人だったが、ワイルドもプロポーズしていたフロレンスとの結婚で一時絶交となった。後に関係を修復している。


来歴編集

1847年

11月8日、アイルランドのダブリンに生まれる。両親はアイルランド聖公会クロンターフ教区の会員で、ストーカーも熱心な信者であった。

幼少時は原因不明の病で寝たきりであった


1854年

病が癒え、アイルランド聖公会の牧師が経営する私立学校に通う。


1864年

ダブリン大学トリニティ・カレッジに入学。シェリダン・レ・ファニュやオスカー・ワイルドらと親交を結ぶ。マウンセル博士を通じて演劇に興味を持った。


1870年

大学を卒業し国家公務員となるが、シェリダン・レ・ファニュとダブリン・イブニング・メール紙を共同経営し、演劇の評論を行う。


1872年

ロンドン・ソサエティから『クリスタルカップ』を出版。


1876年

イングランドの俳優ヘンリー・アーヴィングが主演した『ハムレット』を高評価。アーヴィングはストーカーを滞在していたホテルへ食事に招き、親しくなる。


1878年

美人として評判だったフローレンス・バルコムと結婚。ロンドンに移住し、アーヴィングがオーナーライシアム劇場の支配人代理となり、営業部長も務めた。

アーヴィングを通してロンドンの上流階級と交流を持つ。また、マネージャーとしてツアーに同行して世界各国を巡り、アメリカではホワイトハウスに2度招かれている。ドラキュラの出身地となるルーマニアには行ったことがなかった。


1892年

休暇のためスコットランドクルードン湾へ行く。スレインズ城ドラキュラ城のモデルとなった。


1897年

代表作となる吸血鬼ドラキュラを発表した。シェリダン・レ・ファニュの小説『カーミラ』と15世紀のワラキア公ヴラド・ツェペシュの伝説から着想を得たもので、ドラキュラのキャラクター造形はアーヴィングのたたずまいを参考にしている。


1905年

アーヴィングが死去。


1906年

回顧録ヘンリー・アーヴィングの思い出』を出版。


1912年

4月20日、死去。著作の管理は未亡人のフローレンスが行った。


1922年

ドイツで『吸血鬼ドラキュラ』を無断で翻案した映画『吸血鬼ノスフェラトゥ』(監督フリードリヒ・ヴィルヘルム・ムルナウ)が公開され、フローレンスは著作権侵害として訴訟を起こした。1925年に結審してフローレンスの全面勝訴となり、すべてのネガプリントの破棄が命じられた(わずかに廃棄を免れたものが現存し、最初のドラキュラ映画として知られている)。


1931年

正式に許可が出た最初のドラキュラ映画『魔人ドラキュラ』(監督:トッド・ブラウニング)が公開され、ドラキュラ役をベラ・ルゴシが務めた。


彼の人となりはほとんど知られていなかったが、近年残された日記を曾孫にあたるノエル・ドーブスが発見し、彼にまつわる話を研究している。


関連タグ編集

小説家 作家 吸血鬼ドラキュラ ブラム・ストーカー(文豪ストレイドッグス)

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