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澤登正朗

さわのぼりまさあき

静岡県富士宮市出身の元サッカー選手(MF)、元日本代表、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)・解説者。
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概要編集

1970年1月12日、静岡県東部の富士山の麓にある富士宮市に生まれる。幼稚園の頃からサッカーボールを蹴りはじめ、小学生時代は地元のサッカー少年団(富士宮市立上野小学校)で活躍。地元の中学校にサッカー部がなかったため、12歳の時に親元を離れ東海大学第一中学校(現・東海大学付属静岡翔洋高等学校中等部)へ進学し、サッカーを続けた。3年時は主将を務め、中学総合体育大会の県中部大会で初優勝に貢献。県大会は2回戦長泉北中に0-1で敗れ、全国大会出場は叶わなかった。中学時代での選抜歴は静岡市選抜だけで、特別目立った選手ではなかったという。また、東海大学第一中学校サッカー部では、後に日本代表で共にプレーすることになる3つ年上の三浦知良が、ブラジルから一時帰国中に練習に参加したことがあり旧知の仲であった。


1985年、東海大学第一高校(現・東海大学付属静岡翔洋高校)に入学。 同級生には、元プロ野球選手の鈴木平がいた。静岡県の強豪校の一つでもあった東海大学第一高校サッカー部に入部して間もなく、当時の身長は160センチほどと小柄ながら、澤登のキックに多彩な種類があることに監督が目を止め、武南高校との春季定期戦にMFとして出場。ボールを受けたら、ミスが少ない。左右にボールを散らし、展開力もあった。その試合でゲームメーカーとしての力を発揮し、5月に来日したアデミール・サントス(本来は1学年上)と共に1年次から活躍を見せた。


1986年、過去4度にわたって決勝で敗れ、前年(1年次)はPK戦で涙をのんだ、当時、全国で勝つより難しいと言われていた静岡県予選で東海大一高の初優勝に貢献し、第65回選手権大会に出場。2年生ながら高いテクニックと戦術眼を持ち、広い視野でゲームメイクを行い、4-4-2の布陣の中盤の底でレギュラーを務めた。チームメイトには、後に清水エスパルスで共にプレーすることになる内藤直樹、吉田康弘や、日本代表で共にドーハの悲劇を経験することになる大嶽直人、静岡県予選で得点王に輝いた平沢政輝や、メキシコ五輪で銅メダルに輝いた杉山隆一の息子の杉山淳一、選手権で生まれて初めて雪を見たというブラジル人留学生のBeleza(ベレーザ)ことアデミール・サントスらと共に初の全国大会に臨んだ。徳島商業や秋田商業など全国の強豪を相手に初戦(2回戦)から4試合続けて3-0の同スコアで勝ちあがり、決勝では、こちらも初出場だった長崎県の国見高校と対戦。5万7千人が詰め掛けた国立競技場のスタンドにはサッカーブラジル代表のカレカが観戦に訪れ、テレビ中継のゲスト解説はブラジル時代の三浦知良が務め、試合前にはロッカールームに激励に訪れた。試合は32分にアデミール・サントスのFKで先制すると、73分には澤登がCKから2点目の大嶽の得点をアシスト。東海大一が2-0のスコアで完封勝利し、初出場・全試合無失点優勝[10] という前人未到の快挙を成し遂げた。選手権優勝の影響は絶大で、大会後の県新人戦では会場の周囲がファンで埋まり、バレンタインデーにはチョコレートが大きなトラックで届くほどだったという。のちのインタビューでチームメイトであったアデミール・サントスは「ノボリ(澤登)と平澤は女の子に大人気でちょっとうらやましかった、あの頃は普通に外出できなかったね(笑)。私はテレビで梅干しが好きだと言ったら、一生かかっても食べ切れないほどの梅干しが届いて驚いた。」と語り、澤登は「選手としての注目度も高まり、県の国体代表にすら選ばれてなかった自分がユースの日本代表に呼ばれ、手のひらを返したように高評価を受けました。」「選手権に出場して自分のプレーを多くの人に見てもらった事で、その後のサッカー人生が大きく変わった」と語っている。


1987年は主将を務め、中原幸司、吉村寿洋、熊埜御堂智、篠永博之、吉田康弘、平沢政輝、濁澤一仁らと共に、冬の選手権に臨んだ。選手権予選静岡県大会の決勝では、国体代表7人を擁する清水商業を敗り優勝。大会MVP、ベストイレブンに選ばれ2年連続全国大会進出を果たした。第66回選手権大会では、準々決勝で礒貝洋光、森山泰行、本田泰人らを擁した帝京高校にPK戦の末に勝利。準決勝はインターハイを制した市立船橋高校を敗り決勝に進出。2年連続同一カードとなった決勝は、後に五輪代表や清水でチームメイトになる永井秀樹がいた国見高校に0-1で敗れ準優勝に終わった。連覇を逃して静岡に戻るとブーイングを浴びせられ「静岡代表は優勝しかないんだということをあらためて思い知らされましたね」と後に語っている。また、3年時はユース日本代表に初選出。静岡県選抜にも選ばれ第42回国民体育大会では、2年ぶり13回目(選抜チームとしては10回目)の優勝に貢献。高校卒業直前に行われたヤングサッカーフェスティバルでは、大学4年生の清水三羽烏を擁する大学選抜を静岡県高校選抜が4-2で下す金星を挙げた。


1988年4月、神奈川県平塚市にある東海大学(湘南キャンパス)に入学。同大学サッカー部では攻撃的MFとして、礒貝洋光と共に1年時からレギュラーとして活躍。数々のタイトルを獲得し、全日本大学サッカー選手権大会では4年連続で決勝に進出するなど、東海大学の黄金期を築いた。第37回全日本大学サッカー選手権大会では、ハットトリックをマークするなど活躍し初優勝に貢献。1年生ながら大会MVPに選ばれた。1990年の第39回全日本大学サッカー選手権大会では、準決勝で前人未到の4連覇が懸かった順天堂大学に、値千金のゴールを決め勝利に導くなど、2年ぶりの優勝に貢献し、得点王と2度目のMVPに輝いた。1991年の第15回総理大臣杯全日本大学サッカートーナメントでは、前年の準優勝の雪辱を果たし、初優勝を飾った。大学在学時のチームメイトには、礒貝のほか同学年に、加藤望、飯島寿久、後藤太郎。1学年上に山口素弘、岡中勇人、巻田清一。1学年下に橋本雄二、2学年下に田坂和昭等がいた。また、年代別日本代表では、背番号10を背負い、AFCユース選手権やバルセロナ五輪予選でキャプテンを務めた。1992年に東海大学体育学部卒業。


1988年、日本ユース代表としてAFCユース選手権に出場。予選ではハットトリックを記録するなど活躍し、日本ユースの4大会ぶりの本大会出場に貢献。決勝大会は、第1戦で韓国に敗れ、第2戦のUAE戦では、前半は相手を圧倒するも無得点。後半に2点を奪われると、終了間際に澤登がフリーキックを直接決めて1点差とするも、反撃及ばず敗戦。最終戦を残して日本の敗退が決まり、1989年にサウジアラビアで開催されたワールドユース選手権出場はならなかった。澤登は今大会6試合出場5得点をマークした。


1989年、1992年バルセロナオリンピックを目指す五輪チームが立ち上げられ、日本代表メンバーに選出された。1989年~1990年は、合宿や海外遠征を行い、1991年の6~7月にかけて、バルセロナ五輪・一次予選が開催された。当時赤色だった代表ユニフォームに背番号10番付け全6試合にフル出場。澤登はキャプテンとしてチームを牽引。初戦では開始27秒で得点という記録も残した。日本は5勝1敗で予選1位通過を果たした。


一次予選を突破した日本は、1992年の1月に開催される最終予選に向けて、A代表の監督を務めていた横山謙三を総監督に据え、山口芳忠監督と二頭体制で五輪代表のレベルアップを図った。しかし、初めて結成された23歳以下の日本代表ということもあってか、強化試合は日程が厳しく毎回参加選手が変わり、練習する時間も無く、チームとして力を発揮できずに終わった。さらには、1次予選で7得点(内4得点が決勝点)をマークした山口敏弘が、所属チームの不祥事で出場停止処分となり、山口と2トップを組んでいた「アジアの虎」こと服部浩紀も調子を落とし最終的にメンバーから外れ、前線の構成が大きく変わるなど、日本は万全ではない状態で最終予選に臨むこととなった。澤登は最終予選もキャプテンを務め、3-5-2の布陣の中盤でプレー。後にA代表でも活躍する小村徳男、相馬直樹、名良橋晃、名波浩らと共に中2日5試合を戦った。日本は、試合の主導権を握ってもゴールが奪えず得点力不足に悩み、試合終盤で耐え切れず失点するなど、第3戦のバーレーンにこそ大勝したものの、1勝2敗1引き分けと、なかなか勝ち点を積み重ねることができなかった。他力ながら五輪出場の可能性をわずかに残した最終戦のカタール戦では、相手のスピードに乗った攻撃に苦しめられるが、中盤では優位に立ってこれに応戦する。しかし、後半立ち上がりに失点。反撃を試みるが得点にはつながらず敗戦。混戦となった最終予選は6チーム中5位という結果に終わった。一時は勝ち抜けに必要な3位内に入った日本であったが、「引き分けでもOK」という有利な状況になった第4戦の韓国戦、防戦一方の日本は、前線から相手選手を追い回し、DF石川康を負傷で欠きながらも後半終了間際まで0-0で耐えたが、88分に痛恨の失点を喫し惜敗したのが致命傷となり、24年ぶりの五輪出場は果たせなかった。後のインタビューで澤登は、「(大会を振り返って)純粋に力不足それだけです。個々のレベルが低すぎました」と語っている。澤登はバルセロナ五輪予選11試合出場3得点。全試合に出場し、セットプレー等からアシストをマーク。バルセロナ五輪日本代表から唯一人、翌年に行われた1994 FIFAワールドカップ・アジア予選で試合出場を果たした。また、バルセロナ五輪・最終予選で中盤でコンビを組んだ永井秀樹とは4年後、クラブチームで再びコンビを組み、清水エスパルスを初タイトルへと導いた[16]。


1991年12月4日、地元の静岡に新規発足したプロサッカークラブ「清水エスパルス」に、大卒第1号選手(契約第3号選手)として加入が決定。チーム始動の翌1992年から、長谷川健太大榎克己、堀池巧、三浦泰年、向島建、真田雅則、内藤直樹らと共に、清水の草創期メンバーとして活躍した。1992年9月5日、Jリーグカップ第1節の名古屋グランパス戦で公式戦デビュー。第2節の横浜マリノス戦で決勝点となるミドルシュートを決め、公式戦初ゴールを記録。エスパルスの公式戦初勝利に貢献した。1992年度は、Jリーグ開幕を翌年に控え、公式戦はカップ戦のみ行われ計13試合に出場。Jリーグカップ準優勝、天皇杯ベスト8に貢献。1993年の2月には、日本代表に初招集。Jリーグ開幕戦の9日前の5月7日に、A代表初ゴールを記録した(後述)。


Jリーグ元年(1993年シーズン)は、リーグ戦35試合に出場7得点(公式戦40試合出場9得点)。Jリーグカップのグループリーグは、ワールドカップ・アジア最終予選の期間中に行われたため不参加となった。Jリーグ開幕戦の5月16日、横浜フリューゲルス戦(三ッ沢)でリーグ戦初出場(先発フル出場)。第8節の横浜マリノス戦(日本平)でリーグ戦初ゴール。第11節の横浜フルューゲルス戦(日本平)では、コーナーキックから直接ゴールを決め勝利に貢献した。7月には、Jリーグオールスターサッカーに初出場。ルーキーながらWESTチームの背番号10番を付けてプレーした。同月の24日に開幕したNICOSシリーズ(2ndステージ)は、シジマール、加藤久が加入し、第2節から9連勝を記録。第15節の浦和レッズ戦(国立)では、リーグ戦初の直接FKを沈め勝利。このFKは清水エスパルスのリーグ戦50得点目の記念ゴールとなった。続く第16節は、視聴率30.8パーセント(関東地区・ビデオリサーチ調べ)を記録したヴェルディ川崎との首位攻防戦となったが、8日前に行われたJリーグカップ決勝同様にヴェルディの牙城を崩す事はできず、新戦力としてデビューしたFWのマルコーンも不発に終わり0-1で敗れた。2ndステージは一時は首位に立つなど勢いを見せた清水であったが、この敗戦が響いて2位。年間総合順位は3位(年間勝利数は2位)となったが、清水の中心選手として活躍し、創設間もない新規クラブの躍進に大きく貢献したとして、Jリーグ初代新人王に輝いた。奇しくも初代最優秀選手賞(MVP)に選ばれたのは、中学時代に練習で共に汗を流した三浦知良であった。


1994年8月1日、エメルソン・レオン監督に代わり、「左足の魔術師」と呼ばれたロベルト・リベリーノが コリンチャンス時代のチームメイトであったセルジオ越後の紹介で清水の監督に就任した。リベリーノ監督からは、様々な種類のパスやシュートの蹴り方や逆足(左足)のキック、フリーキック等の個人指導を受け、サッカーの技術力の向上や後のシーズン活躍の足掛かりとなった。


1995年シーズンは、リーグ戦13得点を挙げ自身初の2桁得点を達成。以後1999年まで5年連続で公式戦2桁得点をマークした。


1993年1月、若手選手中心のB代表で臨んだカールスバーグカップに出場。ベンチでは清雲栄純コーチが指揮を執り、オフト監督はスタンドで選手の動きをチェックした。この大会での活躍が認められ、2月に行われた日本代表のイタリア遠征に招集された。セリエA、セリエBシーズン中に行われた国際親善試合では、第2戦のインテル戦、第3戦のレッチェ戦に出場。非Aマッチではあったがフル代表デビューを果たした。その後も代表に招集され、1993年4月からアメリカW杯・アジア予選に臨んだ。1次予選はJリーグ開幕前であったため、大卒ルーキーの澤登は当時の国内トップリーグ(日本サッカーリーグ)未経験選手としての参加となり、Jリーグ開幕後の最終予選では最年少選手となった。同ポジションにはラモス瑠偉などがおり、出場機会は多くはなかったが、初戦のタイ戦、後半途中に負傷退場した森保一と交代で、国際Aマッチ初出場。ラモス瑠偉が森保のポジション(ボランチ)に入り、澤登は中盤の左サイドでプレーした。試合は三浦知良が前半に挙げた得点を守り切り、初戦を白星で飾った。その後の試合も主にサイドハーフとしての出場が続いたが、予選で唯一トップ下の選手と交代で出場したUAE戦で、Aマッチ初得点。後半37分に日本が失点を喫すると、その1分後に澤登が強烈なミドルシュートを叩き込み代表を救った。W杯初出場まであと1勝としていた最終戦のイラク戦では、「ドーハの悲劇」を経験。試合終了間際、ベンチの前に立って歓喜の時を待った澤登は、イラク代表の同点ゴールが入った瞬間崩れ落ち「後は覚えていない」と話した。後にラモス瑠偉は、日本がイラクに2―1でリードした際に、疲労で中盤の選手達の足が動かなくなっていたため、オフト監督に、最後の交代カードは「北澤か、ボールキープできる澤登」がいいとアドバイスしたが実現に至らなかったと話している。澤登は後のインタビューで大会を振り返り、「あのチームにいられたことが誇り、個性的な選手がそろっていたし、本当に強かった」と語っている。


1994年、ハンス・オフトの後任として、日本代表監督に黄金のカルテットの一人でもあるパウロ・ロベルト・ファルカンが就任。初陣となったキリンカップサッカー1994では、これまでラモス瑠偉が背負ってきた背番号10番を付けてプレーした。この大会は当初、アルゼンチン代表が来日予定だったが、ディエゴ・マラドーナの入国問題で取りやめになったため、マラドーナとの10番対決は叶わなかった。ファルカンジャパンでは、右ひざの怪我のため出場辞退した大会もあったが、セットプレーのキッカーを任されるなど、中盤のレギュラーを務めた。広島で行われたアジア大会では、負傷を抱えての出場となったが、得点やアシストをマークする活躍を見せた。しかし同年にファルカン監督が更迭され、その後加茂周監督になると、しばらく代表から遠ざかることになる。


1996年シーズンから、オズワルド・アルディレス監督、スティーブ・ペリマンコーチ体制となり、三浦泰年、長谷川健太に続き清水エスパルスの3代目キャプテンに就任した。アルディレス監督からは、ワンタッチ、ツータッチでボールを捌くシンプルなプレーを求められ、次第にプレースタイルを変化させていった。試合ではドリブル突破よりもパスを選択する場面が増え、以前に比べて相手選手との接触プレーで怪我をすることが少なくなり、Jリーグの出場試合数を着実に伸ばしていった。


1996年の6月1日から9月25日に行われたJリーグカップでは、全16試合に出場し、清水の初タイトル獲得に貢献。ホーム・アンド・アウェー方式で行われた予選では、第2節2nd.leg(セカンドレグ)の横浜フリューゲルス戦で、楢﨑正剛から、タイミングをずらした技ありのFKをファーサイドへ決め大会初得点。予選最終戦、第7節2nd.legのジェフ市原戦では、予選突破に3点差以上での勝利が必要となったが、セットプレーで2得点に絡む活躍もあり、4-0の逆転勝利で準決勝進出を果たした。準決勝では、スルーパスからオリバの得点をアシストするなど勝利に貢献、中田英寿を擁するベルマーレ平塚を5-0で破り決勝進出。過去2度に渡り決勝で敗れ、元監督のエメルソン・レオン、元キャプテンの三浦泰年との対決となった、ヴェルディ川崎との決勝戦では、後半37分に、FKから2点目のオリバの得点をアシストするなど活躍。勝敗はPK戦にもつれ込み、澤登は1人目のキッカーを務め、相手GKの逆を突いてゴール右へ流し込みPK成功。ヴェルディは2人目のキッカーマグロンがPK失敗。4人全員決めた清水は5人目のオリバがゴール左隅に決め勝利。過去最大規模(最多試合数)で行われたJリーグカップを、清水が制し、悲願の初優勝を飾った。決勝戦の翌月、フジテレビの森田一義アワー 笑っていいとも!に、ゲスト出演した際には、司会のタモリに初優勝を祝福された。


1997年は、背番号が固定背番号制になり、以前からスタメン出場の時に付けていた背番号10を正式に背負うことになった。また、この年は清水エスパルスが経営破綻によるクラブ消滅危機となり、大幅な減俸を余儀なくされ、前年に結婚して子供も生まれ、他クラブからオファーがあり移籍も考えたが、学生時代からサッカー選手として清水に育ててもらった恩と、ファン・サポーターのクラブ存続に対する熱意を強く感じ、チーム残留を決定。登録メンバーはリーグ最少の24名となり、ユースチームからメンバーを借りて紅白戦を行うこともあるなど厳しい状況であったが、リーグ戦31試合出場11得点と活躍し、年間順位は5位となった。


1998年は、5月9日の1st第12節のヴィッセル神戸戦で、リーグ戦初となるハットトリックを達成。1stステージはジュビロ磐田と優勝争いを演じ、最終節で勝ち点が並ぶ接戦となったが得失点差で2位に終わった。同年9月23日、2nd第7節の鹿島アントラーズ戦では、Jリーグ史上初のリーグ戦200試合出場を達成した。また、1998年はシーズン序盤に突発性難聴発症というアクシデントに見舞われたが、自身のプロキャリアの中で最多得点となる公式戦15得点を挙げる活躍を魅せた。


1998年のリーグ戦終了後、アルディレス監督に代わり、コーチを務めていたペリマンが新たに監督となり、1999年の元日にはクラブ初の天皇杯決勝に臨んだ。横浜フリューゲルスとの対戦となった決勝戦では、前半13分にファビーニョのクロスを澤登がダイビングヘッドで先制。前半44分、天皇杯終了後に清水に移籍が決まっていた久保山由清にゴールを決められ同点に追いつかれると、72分に追加点を許し敗戦。横浜フリューゲルスのラストゲームに華を添え、準優勝となった。


1999年シーズンは、日本代表への復帰も果たし、クラブでは清水エスパルスで4季目のキャプテンを務め、中盤の要としてチームを牽引。通算5シーズン目の2桁得点となる公式戦13得点をマークした。99年度の新加入選手には、久保山由清、安永聡太郎のほか、大学・高校の後輩の田坂和昭や、年代別日本代表で一緒に戦った服部浩紀等がいた。


2月27日、横浜マリノスと合併して消滅した横浜フリューゲルスの代替で、スーパーカップに初出場。前年度リーグチャンピオンの鹿島と対戦した。前半24分に鹿島に先制点を許すも、1分後にアレックスのクロスを澤登がヘディングシュートを決め同点。後半は清水が主導権を握ったが、前年まで得点源の一人であったオリバの退団の影響もあってか、後半23分に鹿島の名良橋晃にボレーシュートを決められると、終盤の反撃実らず1-2で惜敗した。


3月6日、ヴェルディ川崎とのリーグ開幕戦では、森岡隆三からのロングフィードを右サイドに抜け出した長谷川健太が中央に折り返し、ペナルティーエリア内でボールを受けた澤登がスルーパスでアレックスのシーズン初ゴールのアシストするなど勝利に貢献した。第3節の京都戦では、リーグ戦初得点をマーク。後半開始早々に退場者を出し10人となったが、後半17分に決勝点となるヘディングシュートを決め1-0で勝利した。1stステージは、14試合出場6得点をマーク。終盤4連勝を記録するも追い上げ及ばず10勝1分4敗の首位と勝ち点4差の3位に終わった。


8月23日、日本代表で共に戦ったラモス瑠偉の引退試合に出場。同月7日に開幕した2ndステージは、スターティングメンバーに、GK真田雅則、DFは斉藤俊秀、森岡隆三、戸田和幸の3バック。ウイングバックの右に市川大祐、左にアレックス。ボランチは伊東輝悦とサントス。FWは久保山由清、安永聡太郎の2トップ。澤登はトップ下で攻撃のタクトを振るった。第2節の磐田戦で初勝利を飾ると、第5節の名古屋戦では、ヘディングシュートで先制点を挙げるも相手DFと交錯し流血。頭に包帯を巻いてプレーを続けたが出血が止まらず前半で負傷交代となった。翌第6節のガンバ大阪戦で先発復帰しフル出場を果たした。第10節のヴェルディ戦では、1999年シーズン3回目となる直接フリーキックの得点をニアサイドに突き刺し2-0で勝利。2ndステージ2度目の4連勝に貢献し、リーグ戦残り5試合を残して2位横浜F・マリノスと勝ち点3差の首位で1ヶ月のリーグ中断期間に入った。中断期間中には、セレッソ大阪にレンタル移籍していた堀池巧が清水に復帰。クラブ初の国際大会となった、第10回アジアカップウイナーズカップ99-00の2回戦(初戦)がホームアンドアウエーで開催され、中国の上海申花に合計2-0で勝利した。リーグ再開後の第11節京都戦では、リーグ戦2試合連続となるゴールを決めて5連勝に貢献。この試合で守備の要である森岡隆三が負傷して今季絶望となり、戸田和幸がCBの中央に入り、西澤淳二が左サイドに入ることになった。その後は苦しい台所事情の中でも僅差の勝利を重ね8連勝を記録。11月23日、横浜国際総合競技場で行われた横浜F・マリノス戦でフル出場し、勝利に貢献。初のステージ優勝を果たした。


12月4日、年間優勝を賭けたホーム・アンド・アウェー(全2試合)のチャンピオンシップの第1戦に出場。1stステージを制したジュビロ磐田との静岡ダービーでの頂上決戦となった。試合は前半30分にシーズン途中に清水から磐田に移籍した安藤正裕のクロスボールを中山雅史に頭で決められ失点。4分後の前半34分に澤登がドリブルでサイドから中央に切れ込んできた久保山由清とスイッチして放った技ありのミドルシュートを決め同点とする。スコアは1-1のまま90分で決着がつかずVゴール方式の延長戦となり、延長前半8分に清水がペナルティーエリア内でハンドを取られPKを献上。リーグ戦では堅守を誇った清水であったが、前夜の発熱で欠場になった戸田和幸と、リーグ戦で右足を骨折した森岡隆三という主力2人を欠き、このPKを沈められ2失点目を喫し第1戦を落とした。


12月11日、優勝するためにはもう負けが許されない状況となったチャンピオンシップ第2戦。0-0で迎えた前半34分に痛恨の失点を喫すると、すぐに追いつきたい清水は1分後の前半35分、アレックス(三都主アレサンドロ)が左サイドをドリブルで駆け上がり、ペナルティーエリアの手前で相手のファウルを受ける。このファウルは清水のFKとなったが、冷静さを欠いたアレックスが相手DFの腹部を蹴る報復行為で一発退場。清水は前半早くも1点ビハインド、1人少ないという危機的状況に陥ってしまう。しかし、その直後の前半37分、澤登が同シーズン4回目となる直接フリーキックの得点をマークする。左45度から放ったボールは弧を描きファーサイドのゴール右隅に吸い込まれ、後に自身のベストゴールと語った25メートル超の直接FK弾を決め同点とした。得点後には1失点目の起点になってしまったチームメイトに声をかけて鼓舞する姿もあった。その間わずか5分程の出来事であったが、磐田に一気に傾きかけていた試合の流れを、右足の一振りで引き戻すと、その後10人の清水が、延長戦をファビーニョのVゴールで制して勝利した。トータル1勝1敗とし、チャンピオンシップ史上初のPK戦となり、澤登は1人目のキッカーを務め成功。両手を組み勝敗の行方を見守ったが、サントスとファビーニョが失敗し、PKスコア2-4で敗れて悲願のリーグ優勝はならなかった。チャンピオンシップを振り返って、2得点をマークしたキャプテンの澤登は、「(PKを)外した選手の責任ではなく、我々の力が足りなかった。それに尽きます。勝ち切るということの難しさが改めて分かりました。アレックスの退場もありましたが、我々は10人でもこれだけ出来るのだということが証明できた。チャンピオンにはなれなかったが、非常に良い試合だった」と話した。同じく2得点をマークした磐田のキャプテン中山雅史は、「エスパルスが一人少ない中でも素晴らしいプレーと闘志を魅せていたので、今日は本当に苦しかった。(要略)僕らがチャンピオンになりましたけど、年間通しての戦いはエスパルスが素晴らしいサッカーを展開していた。勝ち点を見てもエスパルスが一番かなと思います。僕らもまたそれに見合うだけのチームに作り直して来年に臨んていきたい」と試合後のインタビューで健闘を讃えた。清水は年間順位は2位となったものの、年間勝ち点は磐田を大きく突き放す16ポイント差の1位であった。澤登はその功績を称えられJリーグのベストイレブンに初選出されると、翌年の1月には、1999年度の日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を受賞。Jリーグチャンピオンシップ第1戦で決めた得点がアジアサッカー連盟(AFC)月間最優秀ゴール賞に選ばれた。


2000年は、最終年となった5期目のキャプテンを務め、4月には第10回アジアカップウイナーズカップ99-00を制し、クラブ初の国際タイトルを獲得。ホーム・アンド・アウェー方式で行われた準々決勝では、韓国Kリーグの強豪、安養LGチータース(現・FCソウル)から澤登が2得点を挙げる活躍で勝利に貢献。チェンマイで行われる決勝ラウンドに進出した。0-0でPK戦にもつれ込んだバンコク・バンクFCとの準決勝は、1人目のキッカーを務め成功。GKの真田雅則が2本セーブする活躍もありPKスコア4-2で勝利。決勝のアル・ザウラーSC戦では、攻撃の起点となり、チャンスメイクするなど活躍。前半は相手を圧倒するも無得点。後半28分に、途中出場のルーキー池田昇平が得点を挙げ1-0で勝利し、初優勝を飾った。


2000年8月26日、Jリーグオールスターサッカーに歴代4位タイとなる6回目の出場を果たした。


2000年シーズンのリーグ戦中断期間には、慢性的な腰痛の治療のためレーザー手術を受けた。


1997年8月28日、フランスワールドカップアジア最終予選の壮行試合で日本代表に復帰。代表から離れている期間も所属クラブではゴールやアシストを量産し活躍していたが、加茂周監督就任3年目にして初めての招集となった。後半21分に中田英寿に代わり途中出場。少ない時間ながらも、ポスト直撃のFKでスタンドを沸かせるなど見せ場も作ったが、その後、加茂周、岡田武史監督の代表では出場機会は訪れなかった。日本代表は成績不振による監督解任などアジア最終予選で苦しんだ末に、アジア第3代表(前回大会の2から3.5にアジア枠が拡大)としてワールドカップ初出場を決めたが、翌1998年はシーズン序盤に突発性難聴発症などもあり、代表に招集されることは無かった。3戦全敗のフランスワールドカップ終了後、ファルカン監督以来3人目の外国人監督となるフィリップ・トルシエが日本代表監督に就任すると、翌1999年のキリンチャレンジカップで日本代表復帰を果たす。ドーハ組からは唯1人の選出となった。最年長プレーヤー(MF)の30歳となった2000年には、アジアカップで5年4ヶ月ぶりのAマッチの得点を記録。同試合でAマッチ初得点を決めた中村俊輔からマイナスのボールを受け、相手DFをターンでかわし左足で放った豪快なミドルシュートの得点であった。その後も、代表に招集されたが控えに回り出番はなく、この大会が現役最後の代表戦出場となった。


2001年3月3日、元日に三冠を達成した鹿島に3-0で勝利し、スーパーカップを初制覇。前半17分にアレックスからのクロスを相手DFに競り勝ち、頭で合わせ先制点を挙げるなど活躍し勝利に貢献した。


2001年の天皇杯では、準決勝の川崎戦で1得点1アシストをマークし決勝に進出。2002年の元日に行われた決勝のセレッソ大阪戦では、FKから2点目の森岡隆三の得点をアシストするなど活躍し初優勝に貢献。2002年2月のスーパーカップでは、2年連続同一カードとなった決勝で鹿島を破り2連覇を果たした。


リーグ戦では、2001年11月17日のアビスパ福岡戦で得点を挙げ、通算6シーズン目となる公式戦2桁得点を達成。2002年7月27日の東京ヴェルディ戦では、Jリーグ史上初となるJ1リーグ戦通算300試合出場を達成した。また、2001年から2シーズン指揮をとったゼムノビッチ監督時代には、ポジションを一つ前に上げ、セカンドトップや、”偽9番”として起用された試合もあった。


2003年は第1回大会のAFCチャンピオンズリーグに出場。日本代表の三都主アレサンドロや、韓国代表のアン・ジョンファンを擁する清水であったが、ベスト16で敗退。澤登は準々決勝リーグ1試合出場1得点をマークした。


2004年12月4日、新潟県中越地震チャリティーマッチにジーコジャパンドリームチームの一員として出場。


2005年3月5日、開幕戦のサンフレッチェ広島戦では、J1リーグ13年連続得点を記録。後半23分に久保山由清からクロスボールを受けてペナルティーエリア内でワントラップ、ゴール左隅にシュートを決め、長谷川健太監督が率いる清水のリーグ戦初ゴールとなった。


2005年11月23日、敗れると入れ替え戦の危機となった第32節ヴィッセル神戸戦、後半44分に澤登が左足で放った強烈なシュートでマルキーニョスの決勝点を演出。日本平スタジアム通算100勝を達成し、J1残留を決定的なものとした。試合後に今シーズン限りでの引退を発表。翌日記者会見を行った。


2005年11月26日の第33節鹿島アントラーズ戦では、先発で69分間プレーし、ロングパスで2点目の起点となる活躍。試合終了後に引退セレモニーが行われた。「輝いているうちに引退したいと決めていた」「14年間、エスパルス一筋でやれたことは誇り、経営危機で消滅してしまうんじゃないかという状況もあったが、いろいろな方々の支えを受けて、新しいチームとして生まれ変わって、新しい歴史をつくれた」「若い選手は、自分達がエスパルスを支えていくんだという気持ちで、ベテランはそれに負けてはいけない、サポーターの皆さんはエスパルスをこれからも愛していってほしい」等の言葉を残し、日本平スタジアムに残った鹿島サポーターからも「澤登」コールが起こるなど、温かい声援に包まれた引退セレモニーとなった。


2005年11月30日、今後の清水エスパルスのために、一人でも多くの選手に試合経験を積んで欲しいという思いから、最終節と天皇杯には出場しないことを表明し、現役を引退した。


引退した2005年シーズン終了時の、J1リーグ戦通算出場試合数は歴代1位であった。また、公式戦通算115得点、J1リーグ戦通算85得点は清水エスパルスのトップスコアラー(継続中)であり、Jリーグ創設の1993年から2005年まで、同一クラブのみで13年連続ゴールを決めているただ一人の選手である。


2006年の元日は国立競技場のスタンドから、清水エスパルスの天皇杯決勝を見届けた。決勝の対戦相手の選手であった元チームメイトの三都主アレサンドロは、「(プロとして)僕が今ここにいる半分はあの人のおかげ。(新人時代の)98年、99年のアシスト、得点はほとんどノボリさんからだった」と試合前のインタビューで感謝の言葉を贈っている。


デビュー以来一貫して清水に所属し第一線で活躍[29]。その功績を賞して、2007年1月21日に日本平スタジアムで清水エスパルスの選手として初めて引退試合を行った。引退試合で販売された記念商品(オフィシャルグッズ)の数々には、“Mr. S-PULSE”の文字が記されていた。


2006年の引退後は、地元の静岡を中心にサッカー講習会の講師、静岡放送静岡朝日テレビのサッカー解説者として出演している。(静岡放送「SBSテレビ夕刊(イブニングニュース)」月曜レギュラー、「朝日テレビスポーツパラダイス」MCなど。)


2006年の4月にはサッカーの普及活動に協力する日本サッカー協会のJFAアンバサダーに就任した(2006年4月~2009年4月)。


2006年の12月に開催されたJリーグアウォーズでは、日本サッカーとJリーグの発展に寄与した功労者に送られる功労選手賞を受賞した。


2007年1月21日、引退試合「エスパルス・オールスターズvs.ジャパン・オールスターズ」が日本平スタジアムで開催された。


2007年6月30日に静岡市葵区にモンマスティー静岡店をオープン。


2008年2月6日からテレビ朝日の「報道ステーション」のサッカーコメンテーターとしてレギュラー出演しており、これはサッカーキャスターの前任者である福田正博が浦和のコーチに就任し降板したためによる後継で、1回目の出演時には1994 FIFAワールドカップ・アジア予選で福田と交代した澤登が得点を挙げたシーンの映像が流れた。当番組では巻き戻しを多用しての解説を特徴とする。


2008年6月7日、中田英寿が主催する「+1 FOOTBOOL MATCH JAPAN STARS vs. WORLD STARS」に出場。前半38分にミドルシュートで得点を挙げた。この時、相手チームのゴールマウスを守っていたのは、14年前に日本代表で対戦した、元フランス代表のGKラマであった。


2009年3月12日、JFA 公認S級コーチのライセンスを取得した。


2009年8月、ハワイ州のサッカー親善大使に就任した。


2011年4月6日、宮城県七ヶ浜町の避難所でサッカー教室を開催。


2011年8月31日、震災復興支援 日伊レジェンドマッチ「 AC MILAN グロリエ vs.Jエスペランサ」に出場。エスパルスで共にプレーしたダニエレ・マッサーロと久々の再会を果たした。


2013年1月、常葉大学浜松キャンパスサッカー部の監督に就任した。


2022年、清水エスパルスユースの監督に就任[31]。

別名・表記ゆれ編集

ノボリ

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