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爆弾三勇士

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ばくだんさんゆうし

大日本帝国陸軍独立工兵第18大隊所属の3名の一等兵の総称。第一次上海事変において敵陣を突破し自爆、突撃路を開いた。

概要

第一次上海事変中の1932年2月22日、上海郊外(現在の上海市宝山区)廟行鎮に展開する国民革命軍19路軍のトーチカ・鉄条網・クリークで守られた陣地に大日本帝国陸軍が突入するべく、鉄条網を破壊する作戦が決行される。

約36名の隊員が志願した中、江下武二北川丞作江伊之助の3名の一等兵が選ばれ、点火した破壊筒を持って敵陣に突入した。

爆発に巻き込まれ3名も戦死するが、鉄条網の破壊に成功。見事突破口を開いた。

戦闘工兵の中でも危険な任務であるが必死の作戦ではなかった。

陸軍大臣の荒木貞夫がこの逸話を「爆弾三勇士」と命名。大阪毎日新聞と東京日日新聞(いずれも後の毎日新聞)はこの「爆弾三勇士」、大阪朝日新聞と東京朝日新聞は「肉弾三勇士」と称した。

3名は2階級特進し伍長となった。

自らを犠牲にし突破口を開いた勇猛さからその武功を称えられ、陸軍始まって以来ともされる弔慰金も集まった。

その一方で「突撃の最中に先頭の北川が撃たれて転倒、タイムロスが発生したため戻ろうとしたが突入を命じられたためそのまま突入、自爆することとなった」など技術的失敗が要因だったとする説もある。

3名のうち2名が被差別部落の出身だったという説もあるがこちらは異説もある。

反応

前述のように新聞各紙は大々的にこの活躍を報じ、遺族が靖国神社陸軍省を訪問する様も情感たっぷりに記事にして新聞購読者の獲得を試みた。

軍歌

特に前述の毎日・朝日系各紙は顕彰歌の歌詞を公募し、毎日が「爆弾三勇士の歌」、朝日が「肉弾三勇士の歌」を発表している。

このほか「廟行鎮決死隊の歌」など実に十数曲の楽曲が発表されたとされる。

映画

日活新興キネマ(後の大映)などの大手から河合映画制作社、赤沢映画、東活映画社、福井映画社などの小規模のプロダクションに至るまでドラマチックな愛国美談映画を次々と発表した。

事件から10日足らずの3月3日には早くもサイレント映画が公開されたが、これは既存の海外映画の戦争シーンの中に新撮した映像をねじ込む粗雑な代物だったとされている。

前述の6社により3月中に7本の映画が公開されたとされる。

1933年には大藤信郎によるアニメーション映画『蛙の三勇士』が公開された。

その他娯楽

歌舞伎文楽新派新国劇新声劇曾我廼家五郎劇、志賀廼家淡海劇、エノケン浪曲落語三亀松、映画説明(活動写真弁士)、流行歌都都逸安来節、レコード劇、さらには琵琶小唄童謡に至るまで軍による検閲もある中で競い合うように爆弾三勇士を題材にしたものが発表された。

爆弾三勇士を題材にしたグッズも多数発表され、小中学校の運動会の競技にもなったほか、子供たちの間で丸太を抱えて「爆弾三勇士ごっこ」が大流行したとも言われている。

さらには漫画『のらくろ』の劇中でも爆弾を背負った3頭の犬が敵陣に突入、自爆するというエピソードが描かれた。のらくろもこの戦いで武勲を挙げて昇進するが、最後の一コマは自爆した3頭の犬の墓前で涙するというシリアスなコマだった。

単行本では3頭の犬は実際の爆弾三勇士同様破壊筒を抱えて自爆している。

陸軍

一方で陸軍はこれを単なる美談では終わらせなかった。

同様の攻撃で戦死者が多数出ていたことから、爆薬を遠距離まで投射する九八式五糎投擲機や、遠隔操作で障害物を爆破する遠隔操縦器材い号などを開発している。

爆弾三勇士の像

長野県飯田市には1932年10月に建てられたとされる直立不動の三勇士の石像が現存する。

1934年に東京府芝の青松寺に破壊筒を抱えた三勇士の銅像が建てられたが、戦後GHQに破却されることを恐れた奉賛会によって撤去され、江下武二像のみが青松寺に残され、北川丞像は長崎県北松浦郡佐々町の三柱神社に移設、作江伊之助像は行方不明となった。

1990年に陸上自衛隊目達原駐屯地で、1934年に建立されるも1942年に金属供出で撤去されたとされる江下武二像の原型石膏像が修復の上公開された。

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