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藤原師家

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ふじわらのもろいえ

藤原師家とは平安時代中期〜後期の藤原北家中関白家の人物及び平安時代末期〜鎌倉時代前期にかけての藤原北家松殿家の人物がいる。

藤原師家は以下の二人がいる。

1.平安時代中期〜後期の藤原北家中関白家の貴族

2.平安時代末期〜鎌倉時代前期にかけての藤原北家松殿流の公卿

藤原師家(中関白家)の概要

プロフィール

生没年:万寿4年(1027年)〜康平元年(1058年)

父:藤原経輔

母:藤原資業の娘

経歴

経輔の長男。後冷泉天皇の時代に少納言に任官。康平元年(1058年)、従四位下右中弁兼摂津守に叙任されるが父に先立つ。享年32。

彼の早逝は嫡子・家範の出世が遅れる一因となり、家範は76歳まで長生きしたが極官は正四位下大膳大夫に過ぎず公卿になれなかった。

藤原師家(松殿家)の概要

プロフィール

生没年:承安2年(1172年)〜嘉禎4年(1238年)

父:藤原基房

母:花山院忠雅の娘

極官:正二位内大臣、摂政

経歴

基房の三男で松殿師家ともいう。三男だったが花山院家への配慮もあり嫡子となる。基房が関白だった治承3年(1179年)、僅か8歳にして権中納言に補任される。しかし、これは師家の従兄である近衛基通を超越しての昇進であり、摂関家の正統な後継者を基通から師家に変更することを意味する措置であったが、基通の継母は平清盛の娘の平盛子であり基通自身も清盛の女婿であったため清盛の面子は丸潰れとなり激怒する。その後、清盛が治承三年の政変起こし師家は父共々子官職を奪われた。

清盛死後の寿永2年(1183年)、基房は平家を追って上洛した源義仲と結ふ。そして師家は12歳にして摂政となった。しかし翌寿永3年(1184年)、義仲が近江国粟津ヶ原において源頼朝が派遣した源範頼の軍に敗れ戦死したため摂政の地位を追われ官位も剥奪されてしまう。その後は若くして隠棲し生涯官位に就かなかった。嫡子基嗣が解官された貞永元年(1232年)に出家し、嘉禎4年(1238年)に死去。享年67。

その後の松殿家

庶兄の藤原隆忠は最終的に左大臣となり、内大臣だった師家を官職で追い抜き、弟の松殿忠房は、寛元4年(1246年)に九条道家名越光時らが起こした宮騒動に絡んで息子の九条頼経一条実経兄弟と共に失脚した時に次の摂関の候補者に挙げられたものの42年ぶりの松殿家の摂関返り咲きは叶わなかった。松殿家は師家と隆忠の系統が孫の代で共に絶家したため忠房の系統が主流となった。しかし、同じ藤原北家嫡流でありながら近衛家鷹司家九条家二条家一条家の五摂家と違って振るわず家自体も安土桃山時代の松殿家豊を最後に絶家した。江戸時代前期に九条幸家徳川家光の支援を受け松殿家再興の許可を得て三男の道基に継がせた。道基は徳川光圀の姉を娶る予定だったがその前に早世し嗣子を残せなかったため再度絶家。明治維新後にも再興の動きはあったがこれも成らず完全に絶家した。松殿家の末裔を名乗る家は無いが松殿家については不詳な点が多く家紋すらもわかっていない。

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