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概要
1942年2月27日から3月1日にかけ、インドネシアのスラバヤ港の沖で、日本のジャワ島攻略部隊を連合国軍が迎撃した海戦。
日本海軍が連合軍の艦隊を撃破し、ジャワ近海の連合軍艦船はほぼ壊滅した。
日本軍がアウトレンジ戦法に固執したため砲や魚雷の命中率が極端に低下し、46時間に及ぶ戦闘が続いた。
海戦の背景
日本側
太平洋戦争開戦後、南方の資源を狙い東南アジア方面へ進撃した日本海軍はマレー沖海戦でイギリス東洋艦隊のプリンス・オブ・ウェールズとレパルスを撃沈。さらに東南アジアにおける連合国側の最大拠点であったシンガポールの陥落と南雲機動部隊によるポートダーウィン空襲により、連合国側に対して優位に立っていた。
これらの戦果から日本海軍はジャワ島を奪取する機会が到来したと判断し、60隻以上の大船団を編成して攻略に乗り出した。
連合国側
連合国側は東南アジア方面に残された各国艦艇を結集し、日本軍に対抗すべくABDA艦隊(A=アメリカ、B=イギリス、D=オランダ、A=オーストラリア)を編成し、ジャワやオーストラリア防衛のために活動を開始する。しかし、合同訓練すら行っていない烏合の衆の上、艦隊司令長官のカレル・ドールマン少将(オランダ海軍)は英語を話せなかった。
1週間前のバリ島沖海戦では軽巡洋艦3隻と駆逐艦7隻の艦隊で日本軍上陸部隊を迎撃するも、護衛の第八駆逐隊(駆逐艦4隻)に撃退されてしまった。
シンガポール陥落とポートダーウィン空襲により艦艇の整備補給も困難になったことから、連合国側はジャワ防衛は不可能と判断し、セイロンやオーストラリアへ脱出していた。しかし、母国をナチスドイツに占領されたオランダ領東インド政庁は徹底抗戦の構えを崩さず、指揮下に留め置かれた連合軍艦艇と共に日本軍を待ち構えていた。
参加艦艇
日本軍
駆逐艦:潮、漣、山風、江風、雪風、時津風、初風、天津風、村雨、五月雨、春雨、夕立、朝雲、峯雲、雷、電、曙、敷波
空母:龍驤
連合軍
オランダ海軍
駆逐艦:コルテノール、ヴィテ・デ・ヴィット
イギリス海軍
重巡洋艦:エクセター
アメリカ海軍
重巡洋艦:ヒューストン
駆逐艦:ジョン・D・エドワーズ、ポール・ジョーンズ、ジョン・D・フォード、アルデン、ポープ
オーストラリア海軍
軽巡洋艦:パース
戦闘経過
数と錬度で勝る日本軍に対し、血気に逸るドールマン少将の連日に渡る出撃命令により連合軍は疲弊し、勝敗は明らかであった。
しかし、日本艦隊側の主力である第五戦隊が遠距離砲撃戦に終始し、第二水雷戦隊と第四水雷戦隊が仕掛けた雷撃も早爆するなど、戦況はしばしば膠着し両軍は消耗する。妙高や足柄、龍驤の増援があった日本軍に対し、連合軍は損傷艦の修理や補給すら満足に行えず、しだいに追い詰められていった。
連合軍の残存艦は脱出を図ったが、スンダ海峡突破失敗(バタビア沖海戦)と日本軍の追撃により壊滅し、アメリカ海軍の駆逐艦4隻のみがオーストラリアへ離脱した。
評価
連合軍側は日本軍水上艦が魚雷を発射したのに気付かなかった場合、酸素魚雷の長射程を知らなかったため、潜水艦による奇襲を受けたと誤認して混乱状態に陥った。
日本軍はアウトレンジ戦法に固執し弾薬を消耗しすぎた。
追撃戦においても、夜戦準備中に会敵して戦闘準備が間に合わずに撤退する、夜闇に紛れて接近してきた敵駆逐艦隊から雷撃を受けたが気付かない、敵艦を撃沈し万歳三唱している間に残りの敵艦を見失うなどの失態を犯した。
第五戦隊砲術参謀の末國正雄中佐は「演習は全軍突撃で終結となり、その後の訓練は行っていなかった」と回想している。
露見した問題
高速航行時の魚雷発射における低い命中率と、波の衝撃による誤爆が判明し、問題改善のために改良が試みられたが、その後も同様の事態が発生している。
敵兵救助作業
救助に参加するか否か、救助した敵兵の扱いについて各艦で温度差があったが、敵艦乗組員への救助作業が各艦で行われた。これは艦隊司令長官の高橋伊望中将が、対米戦争回避派で滞英経験のあったことも影響している。
救助作業があった事に日本側では箝口令が布かれ、救助を受けた連合軍側乗組員の証言により、戦後に明らかになった。
余談
海戦で撃沈されたエクセターは、1939年のラプラタ沖海戦でドイツ海軍のアドミラル・グラーフ・シュペーを自沈に追い込んだ艦であったことから、大本営海軍報道部は「大西洋の仇を太平洋で討った」と大きく報道した。
足柄は1936年のジョージ6世戴冠記念観艦式で注目を浴びた後、アドミラル・グラーフ・シュペーと共にキール軍港を表敬訪問し、乗組員らと交流を深めた事があった。また、観艦式にはエレクトラとエンカウンターも参加していた。