概要
この分類は路面電車の一種であり、電車にておおむね数十km程度の都市間を直結しその路線は都心にも伸びる形式である。都市間は専用軌道(路面電車のみが走行する区間)で、都心部を併用軌道(道路と軌道が利用する形式)で運行するケースが多いとされる。
サクラメント・ノーザン鉄道(アメリカ)の電車。
各国での展開
アメリカ・カナダ
そもそもインターアーバンという言葉は、19世紀の終わりごろにアメリカで生まれたものである。
アメリカの中西部においては都市間に距離があるため、移動手段を必要としていた。電車の発達(特に吊り掛け駆動方式および総括制御方式の発明)により、都市間を結ぶ電気鉄道が急速に発達、具体的には19世紀の間にはおおよそ3000km、1910年代には24,000kmの路線が存在したとされる。それまでの蒸気機関車による鉄道よりもスピード自体は早くはなかったものの、軽快な運用により客の関心を得ていた。
こうした鉄道について記述したり、語ったりする場合に、「都市間電気鉄道」を意味する「Inter-urban Electric Railways」を略して「インターアーバン」と呼ぶようになったのがその起源である。
1908~1920年代にアメリカやカナダのインターアーバンは全盛期を迎えた。
この国のこの種の鉄道の特徴として「従来鉄道の進入防止のため狭軌を用いた路線が存在したこと」「他に路線のないところにサービスを提供し、客への利便性を追求したこと」などがあげられる。
ところがその後の世界恐慌の影響による路線敷設の停滞、自動車の性能向上によるバスや自家用車の普及、都市開発における低密度志向などにより路線は廃止され、さらには第二次世界大戦直後に急速なモータリゼーションが起こり、また国および州の法律などのため多くのインターアーバンは次々に廃線、あるいは旅客営業の廃止が行われた。
1950年代にはパシフィック電鉄やノースショアー線など、残されたインターアーバンが生き残りをかけて奮闘していたがそれも虚しく、現在ではサウスショアー線(現在の運行主体は北インディアナ通勤輸送公社)が残るのみとなっている。運行本数も、アメリカ合衆国の一般的な通勤鉄道によく見られるような通勤時間特化型で、2014年現在では、昼間の運行本数は1-2時間に1本、末端区間では4時間ほど車両が来ない時間帯もある。
(参考→北インディアナ通勤輸送公社ウェブサイト)
ただ、近年の交通政策の見直しから、北米各地ではLRTの建設や通勤鉄道の新設が行われるようになった。もしかするとこうしたLRTや通勤鉄道は、インターアーバンの生まれ変わった姿なのかもしれない……。
(実際に、ロサンゼルスのLRT・ブルーラインはパシフィック電鉄の廃線跡を活用して建設されている)
メキシコ・キューバ
メキシコの首都メキシコシティでは、私企業であった「メキシコ市街軌道」などがインターアーバンを運営していたが、これらが1947年に公営化された後、路線バスやトロリーバスに置き換えられるなどして路線の縮小および廃止が相次いだ。
しかし、そんな中で残存した路線は順次整備され、ライトレール化が行われて現在に到っている。
ちなみに、ハラパ(メキシコ南部のメキシコ湾沿岸、ベラクルス州の州都)にもインターアーバンに類似した路線が建設されたが、これは非電化路線であり、こちらは国有化された(その後廃止されたと思われる、参照、まるかどめるかど)。
また、キューバのインターアーバンはアメリカの大手チョコレート会社であるハーシーによってプランテーションで収穫される砂糖を輸送するための路線を元に建設されているが、この路線は現在キューバ国鉄の一路線となり現在も運転中(ただし骨董品のような車両が三往復する程度の規模であり、現在キューバにおける唯一の電化路線らしい。参照、世界一周ミルキクタベル)である。
ヨーロッパ
類似のシステムとしては、ドイツのシュタットバーンや、オランダのシュネルトラム(急行路面電車)、
またベルギーのヴィシナル(連絡電車)やクスト・トラム(海岸電車)、ポーランドのシレジア地方を走るインターアーバンなどが存在している。
チェコ
第二次大戦後、共産圏にあったこともあってインターアーバンは戦後も残されたが、
軌道の整備もままならずガタガタの状態だった。ソ連崩壊後の民主化により多少は改善されている様子である。
代表的なものとしてはリベレツ~ヤブロネツ間のトラムがインターアーバンである。
ドイツ・オーストリア
こちらも戦後の東西分断後、特に西ドイツでは廃線が相次いでいたが、1970年代以後の路面電車政策の見直しにより残存した路線も多い。
また、先述の通り一部の路線は高規格化が行われてシュタットバーンと呼ばれるLRT路線への改築が進んだ。
ちなみにインターアーバンはドイツ語では「ウーバーラント・シュトラッセンバーン(高規格路面電車)」と呼ぶ。
代表的な例としてはシュツットガルト~メーリンゲン間の路線(かつてはその先ホーエンハイムまで伸びていた)や、
ライン・ルール地区のシュタットバーン、ケルンとボンを結んでいた「ケルナー・ボン・バーン」、
ベルリン郊外のランスドルフ駅からヴォルタースドルフ間の路線など。
また、オーストリアにおいてもウィーン市内から温泉地として名高いバーゼル市までの間に
「ウィーン地方鉄道」と呼ばれる私鉄があり、これもインターアーバンの一種と言える。
イタリア
ミラノ市内で運行されている、オレンジ色のインターアーバン(インテルウルバーノ)が有名だが、
第二次大戦後のモータリゼーションの進展や地下鉄網の整備で廃線が相次いだ。
このため残っているのはデージオ線・リンビアーテ線の2路線のみ。
ただし、ミラノ地下鉄のM2号線はかつてのインターアーバンを高規格化して作られた路線である。
このほか、トリエステにおいても「オピチナ・トラム」が運行されているが、こちらは都心部にインクライン(ケーブルカー)の区間があり、電車はケーブルカーに押されて走る。
オセアニア
オーストラリアにおいてもインターアーバンは建設されており、アデレード近郊にある「グレネルグ線」はその代表例である。
1980年代ごろまでは旧型車両ばかりだったようだが、現在では改良整備が進んでLRT化が行われている。
なお、オーストラリアにおいてはシドニーやメルボルンなどの大都市近郊を走る通勤鉄道のことも「インターアーバン」と呼ぶが、
これはどちらかというと「国電」なんかに似たニュアンスの使用方法なので注意が必要。
しかし、「都市間連絡の電気鉄道」であるという点は共通していると言えるのであながち間違ってはいない。
日本
アメリカでのインターアーバン発達の情報は日本にも早くに伝わり、阪神電気鉄道を皮切りに、京阪電気鉄道、京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)や京成電気軌道(現在の京成電鉄)などといったそれに類似した路線が次々に建設されていった。
当初こそ路面電車の延長線にある小規模な交通機関(これは高規格な長い路線を引く計画が認められない、あるいは国有化される恐れがあったことも影響するかもしれない)であったが、1920年代になると新京阪鉄道(現在の阪急京都線)や小田原急行鉄道といった全線高規格の高速電車線が登場するに到った。こうした全線高規格の路線は日本国内におけるインターアーバンの第2世代と捉えることができる。
日本ではアメリカに比べてモータリゼーションの進行が遅かった(アメリカでは1920年代にT型フォードの普及と道路整備が進んだこと、ドイツでは1930年代の高規格道路であるアウトバーンの整備などで進行したのに対し、日本の場合自家用車の普及は1960年代半ばから始まったといわれる)こともあり、さらに風土的な側面もあったのか(アメリカでは近郊には人は少ないが日本の場合近郊地域にも住人は存在する)殆どが成功を収め、特に大都市圏では大手私鉄として発展を遂げていった。
ただしそれとともに鉄道としての側面が強調され、路面電車の側面(すなわち低速ではあるものの停車場は多く、本数も多い)は失われていった。
その一方、過去に建設された路線は自動車の増加や過疎化などの理由により、路線廃止し別路線に移行、あるいは廃線となった路線もあることを忘れてはならない。これは中小私鉄のみならず大手私鉄でも岐阜の名鉄揖斐線・谷汲線などのように廃止された路線が存在する。
日本におけるインターアーバンの例
日本最初のインターアーバン・阪神電気鉄道の電車。
京阪電気鉄道の電車。特に関東・関西のインターアーバンは大手私鉄として発達した。
京浜急行の電車。インターアーバン路線の多くはJR線と併走している場合が多い。
大都市圏のみならず、一部の地方都市にもインターアーバンが建設された(福井鉄道)。