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源頼朝の編集履歴

2022-05-22 23:21:44 バージョン

源頼朝

みなもとのよりとも

平安時代末期~鎌倉時代初期の武将、政治家。鎌倉幕府初代征夷大将軍。

概要

平安時代末期から鎌倉時代初期における武将で、河内源氏一門の棟梁。鎌倉幕府の初代征夷大将軍、そして日本史における武家政権の創始者として知られる。


生涯

久安3年(1147年)4月8日、河内源氏棟梁の源義朝の三男として熱田神宮大宮司・藤原季範の娘の由良御前との間に尾張国(現在の愛知県名古屋市熱田区)に生まれる。幼名は鬼武者、または鬼武丸。三男の頼朝が実質的に嫡男扱いされたのは、兄弟の中で最も母の身分が高かったためとされる。13歳で平治の乱に参戦するが敗北し父と二人の兄(義平・朝長)は殺された。その後、命は助かり青春時代を流刑人として伊豆国(現在の静岡県)で過ごす。


正妻は北条政子。政子は頼朝の流刑中にお目付け役としていた在地豪族・北条時政の長女であり、時政の目を盗んで恋仲になって駆け落ちをしたため、時政も渋々結婚を認めたというエピソードが残されている。(曽我物語、源平盛衰記など)


北条政子との間に、大姫、二代将軍・源頼家三幡乙姫)、そして三代将軍・源実朝という四人の子がいる。頼家・実朝兄弟は後に暗殺され、大姫は婚約者・源義高(源義仲の嫡男)の殺害が原因で病を得て亡くなるなど悲劇的な最期を遂げている。


治承4年(1180年)、高倉宮以仁王の綸旨に応じて関東武士を率い挙兵。初戦の石橋山合戦こそ敗れるものの、その後、関東南部を平定、鎌倉に拠点を構える。寿永2年(1183年)、先に上洛していた源義仲木曽義仲)追討の命を後白河法皇から受け、異母弟・源範頼義経兄弟率いる軍勢を派遣、これを破る。範頼・義経兄弟はさらに西国に落ち延び、勢力を盛り返しつつあった平家追討のため出陣、文治元年(1185年)、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼすことに成功した。その後、平家討伐に最大の功績を挙げた異母弟・義経との対立が表面化、逃亡した義経を追うことを口実に全国に守護・地頭を置くことを後白河院に承諾させた。建久3年(1192年)、征夷大将軍に就任。

将軍就任から約7年後の建久10年(1199年)、相模川橋供養を終えた帰路で発病し、53歳で亡くなる。死因については、落馬事故の後遺症説、糖尿病などの病気説、さらには北条氏による暗殺説も唱えられているが、真相は今なお闇に包まれている。近年の文献による研究では、酒宴の多さが祟って内臓を患った可能性が指摘されている。


人物

能力・性格

政治的能力、人材掌握力が高く、日本史における組織作りの天才と言われており、その手腕は後世の徳川家康が手本としたほどである。武家政権の創始者として頼朝の業績は高く評価されているが、その一方で、人格的には猜疑心が強く「冷酷な政治家」と評される場合が多い。これは頼朝の許しを得ずに後白河院から検非違使という官職を与えられた実の弟の源義経を死に追いやったことと源範頼に謀反の疑いをかけ誅殺したこと、木曾義高・多田行綱・安田義定・一条忠頼らへの仕打ち、義経を討ち取り恭順の意を示した奥州藤原氏を滅亡へと追いやったことのイメージが影響している。その他、取り上げられる。ただし、『吾妻鏡』などの当時の歴史書には欠落が多く(後に天下を取った北条氏寄りに改竄されたとされる)、死因含めて頼朝の詳細についてはいまだ謎が多い。

また当時の関東圏は、荒くれ者の猛者が犇めき合い鎬を削り合う物騒な土地柄であり、余所者の頼朝が面従腹背の精強な野心家である坂東武者たちを屈服させるには、ある程度の恐怖統治も必要だった事情も考慮すべきだろう。

毒舌家としても有名で、自分への態度が良くない御家人に対して容姿や性格などの特徴を挙げた上で痛烈に非難したとされる。逆を言えば、相手の特徴を隅々まで把握できるほどの観察眼の高さが窺える。


容姿

書籍などの記述には「年齢より大人びている」「背は高くないが容貌優美で威厳がある」「顔が大きく、容貌は美しい」などと記されており、少なくとも当時の感覚では美形であったことは間違いないようだ。身長は大山祇神社に奉納された甲冑を元に推測すると165センチ前後はあったとされ、当時の平均よりはやや長身である。


教科書や歴史書などに載っている有名な神護寺の肖像画は、実は足利直義の肖像画であるという説が近年有力になりつつある。これは肖像画の画法が南北朝時代のものであることや、人物の服装が鎌倉時代よりも後の時代であることなどが理由。最近ではタイトルを「・源頼朝像」と改題し注釈入りで紹介される他、掲載を見送るケースも存在する。甲府善光寺蔵の木像が生前の姿に一番近いと言われており、垂れ目・垂れ眉の老け顔が特徴で、一般の頼朝像とは大きくイメージが異なる。

源頼朝と平重盛


逸話

  • 英雄色を好むの例に漏れず、彼も相当な女好きだった。特に流人時代から「亀の前」と言う美女を愛したが、正妻の北条政子は激しく嫉妬(しかも妊娠中に不倫された)して、亀の前を宿泊させた伏見広綱の屋敷を焼き討ちし、伏見氏を流刑と言う某ギリシャ神話カップル真っ青の所業を起こした。それでも、頼朝は色々な女の子と付き合ったらしいどういうことなの…
  • 以仁王の令旨による挙兵の初戦「石橋山の戦い」にて十倍の兵の差(吾妻鏡)に大敗するが、敗走中に鎧武者を一撃で倒してるだの矢羽まで埋まっただの、あの平安時代のモビルスーツに並ぶ強弓使いだったと伝わっている。
  • 「平家物語」では殆ど空気だが、「平治物語」ではしばしば見せ場がある。長兄・義平の影に隠れているが郁芳門の戦いで弓の腕の冴えを見せ、落武者狩りを斬り捨てるなど年少ながら武勇のほどを見せている。
  • 保暦間記と言う書物によれば、自決に追いやった実弟・源義経や、壇ノ浦の戦いで結果として平家と運命を共にすることとなった幼帝・安徳天皇の亡霊に祟られて死んだと言う。陳和卿と言うの工人からも「罪業深き人」と言われた事もあり、存命時から冷酷さを流布されていたと言われている。
  • 武士を優遇したと思われがちだが、文治元年(1185年)に部下の玉井四郎助重が武力を行使した悪事を働いた上に朝廷の仲裁を聞かなかった時には激怒し、

「綸命に違背するの上は、日域に住すべからず。関東を忽諸せしむるに依りて、鎌倉に参るべからず。早く逐電すべし」(勅令に背くならば日本国の臣に非ず。幕府の命に従わぬならば御家人としての保護は与えぬ。速やかに出て行くが良い)

と申しつけたこの事から、頼朝の武士に対する統率がいかに厳しかったがわかる。

  • なお、その玉井は建久元年(1190年)に上洛警護の重職に復帰しているので、追放は無かったとも、或いは終身刑の流罪を与えたのでは無かった(重い罪ならば死刑が当たり前の時代)と言う解釈もできる。だが、それを根拠にして「お上を批判する者は出て行け!」と言いだす人も少なくない…。
  • 一方で親馬鹿な所もあり、長男の源頼家が鹿狩りで獲物をしとめたときには政子に報告の伝令まで出し、「武士なら当たり前のこと」と窘められる人情味のある一面を持っていた。
  • 娘の大姫の急死からより体調不良と猜疑心を拗らせており、晩年の不調に繋がったという。もっともこの元凶も自分自身にあり、大姫の婚約者だった源義仲の嫡男・源義高を猜疑心から処断し打首にしたことで、大姫が精神的ショックで病弱になったことに起因する。

源頼朝が登場する作品

ますらお 火の鳥乱世編 遮那王義経 修羅の刻 リョウ 源平伝NEO イザヤカク



いずれも政治力や指揮が高いが、武力や魅力は並みか低い数値であることが多い。

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