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天正壬午の乱の編集履歴

2023-01-23 01:22:11 バージョン

天正壬午の乱

てんしょうじんごのらん

天正10年(1582年)、織田氏の衰退をきっかけに旧武田領で勃発した一蓮の騒動。なお、この記事では乱の前後に勃発した出来事についても記載する。

背景

織田徳川北条連合軍による武田滅亡

天正10年(1582年)、織田信長徳川家康北条氏政の三者による武田領への侵攻により、武田勝頼信玄の嫡男)は自害した。

武田勝頼

これにより、旧武田領のうち甲斐信濃上野の一部は織田領に、駿河は徳川領になった。


織田政権の衰退

その後、信長は武田を滅ぼした勢いで武田の同盟勢力だった上杉家をも滅ぼそうとした。しかし、信長及びその嫡男・信忠明智光秀による謀反(本能寺の変)により自害した。余談だが、この出来事は武田滅亡から3ヶ月後に起きた。

本能寺


織田政権の衰退直後の、旧武田領を支配していた織田軍武将の動向

主・信長を失って混乱した織田軍の武将たち(下記の4人)の動向。

  • 滝川一益:上杉領へ侵攻していたが、信長と信忠の訃報を聞いて伊勢へと撤退しようとした。しかし、織田との同盟を破棄した北条軍による侵攻(神流川の戦い)に敗北するも撤退には成功する。
  • 森長可:滝川同様上杉領へ侵攻していたが、信長と信忠の訃報を聞いて美濃へと撤退。道中にて木曾義昌(旧武田家臣だったが、織田側に寝返った)による妨害に苦戦したが、撤退には成功した。
  • 河尻秀隆:旧武田家臣による反乱に悩まされていた(この反乱は、甲斐の支配を目論んだ徳川家康による煽動だったという説が有力)。そんな状況で使者として訪れた徳川家臣・本多信俊を処刑してしまったため、徳川側からの反感を買ってしまい、信俊の家臣たちと組んだ旧武田家臣によって討ち取られた。
  • 毛利長秀:信長と信忠の訃報を聞いて尾張へと撤退。
  • 穴山勝千代:父・穴山信君(旧武田家臣だったが、織田側に寝返った)が伊賀越えの最中に落武者狩りによって討ち取られたため、伊賀越えを生き延びた徳川家康によって(勝千代が若かったため)穴山領の保護を名目に領地を支配下におかれた。

こうして、織田軍の武将たちが旧武田領から撤退したため、それらの地域は空白地帯となった。そして、その地域を巡って徳川、北条と上杉による三つ巴の争いになった。


関連勢力の説明

大名武田滅亡時の武田家との関係武田家との親族関係庇護している武田一門
徳川家康敵対家康の側室下山殿は武田信玄の義理の姪孫娘。-見性院(武田信玄の次女)と穴山勝千代(見性院の嫡男)
北条氏直(実質的な権力者は氏直の父・氏政敵対氏直の母・黄梅院は武田信玄の長女。-信松尼(武田信玄の六女)
上杉景勝同盟景勝の正室菊姫は武田信玄の五女。-武田信清(武田信玄の七男)

上記の表を見れば分かるとおり、上杉景勝と北条氏政は武田信玄の義理の息子だ。そして、上杉家は武田家と同盟を締結していた。


概要

徳川軍の行動

武田勝頼を滅ぼした勢力の一つ。

伊賀越えから生還した徳川家康は、横死した穴山信君の嫡男・勝千代の領地を保護するという名目で支配下に置き、勝千代に武田家を継承させた(こうすることで、家康は武田家を復興したということを旧武田家臣に印象付け、彼らを味方につけようという戦略だった)。

織田家臣・河尻秀隆を謀殺したのちに甲斐を占領。これには、河尻が旧武田家臣に対する弾圧が強かったのに対して、家康は旧武田家臣を丁重に登用したため、河尻の圧政に反対した旧武田家臣が家康の支配を望んで家康に協力したという一面があった。(家康は織田家と同盟を締結していたが、織田政権は家康との敵対を危惧して家康のこの行動を不問にした。)

のちに、徳川との同盟を破棄した北条軍と対決。真田昌幸や木曾義昌を北条側から離反させ、北条軍の輸送路を遮断。そして、黒駒合戦にて勝利したことをきっかけに北条と和睦。

徳川の甲斐と信濃における領有権を認められた。そして、家康の次女・督姫が北条氏直と政略結婚した。


北条軍の行動

武田勝頼を滅ぼした勢力の一つ。

織田との同盟を破棄した北条氏政・氏直親子は上野の織田家重臣・滝川一益の舞台を駆逐し、信濃へと侵攻。上杉軍と対峙するが、のちに和睦して撤退。真田昌幸や木曾義昌らを味方につけて徳川領甲斐へと侵攻したが、真田と木曽が徳川側に寝返り輸送路が遮断され、さらに黒駒合戦に敗北したことをきっかけに徳川と和睦。

上野は北条軍の切り取り次第となった。そして、氏直は家康の次女・督姫と政略結婚した。


上杉軍の行動

武田勝頼と同盟(甲越同盟)を結んでいた唯一の勢力。

敵対していた織田政権が衰退したことを好機に、上杉景勝は織田家重臣・森長可の部隊を追撃し、北信濃の占領に成功。これにより、景勝は妻・菊姫の生家・武田家の旧領の一部を織田から奪還することに成功した。のちに北条軍と対峙したが、和睦して反乱者・新発田重家の討伐へと向かっていった。


その後の展開

前述した通り、乱は徳川と北条の和睦という形で終結した。

しかし、ここで問題が起きた。それは、和睦の条件の一つ・「上野は北条軍の切り取り次第」というものであった。なぜなら、徳川に臣従した真田昌幸は上野に領地を持っており、それを北条に渡すよう家康に命じられたからである。昌幸からすれば、真田領を守るために徳川に臣従したのにその一部を北条に渡すというのは本末転倒だ。

こうして、昌幸は徳川と北条に対抗するために上杉景勝に臣従した。前述した通り、景勝の正室・菊姫は武田信玄の娘であり、景勝は武田家と同盟を締結していたため、旧武田家臣の昌幸からすれば景勝への臣従は乗り気であったと考えられる。

そうして、昌幸は上杉の支援を得て徳川・北条連合軍の撃退に成功(第一次上田合戦)。のちに昌幸は景勝が臣従していた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に臣従した。

さらに、家康は第一次上田合戦の前年に秀吉に小牧・長久手の戦いにて外交的敗北をしていたため秀吉に臣従。その後、次々と各大名が秀吉に臣従する中、北条氏政だけが秀吉への臣従を拒否。さらに、惣無事令を無視して真田領へと侵攻したため、北条家は秀吉によって滅ぼされた(小田原征伐)。


関連タグ

戦国時代 信濃

真田丸(大河ドラマ)


関連人物

徳川軍

徳川家康 下山殿

穴山勝千代 見性院

酒井忠次 本多忠勝 榊原康政 井伊直政

石川数正(乱後に羽柴に臣従) 本多正信 鳥居元忠 大久保忠世 平岩親吉

三宅康貞 小笠原貞慶

依田信蕃 真田昌幸(乱後に上杉に臣従) 保科正直

奥平信昌 岡部正綱 木曾義昌(乱後に羽柴に臣従し、帰参) 小笠原信嶺


北条軍

北条氏政 北条氏直

北条氏照 北条氏邦 北条氏規 北条氏忠

北条幻庵 北条氏勝

大道寺政繁

内藤昌月(北条滅亡後に徳川に臣従)


上杉軍

上杉景勝 菊姫

武田信清

直江兼続 斎藤朝信 本庄繁長 水原親憲

上条政繁(のちに出奔) 小笠原洞雪斎 山浦景国(のちに追放処分を受ける)

芋川親正 屋代秀正 春日元忠

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