徽宗
きそう
概要
宋(北宋)末期の皇帝(1082年-1135年)。芸術に没頭し、絵画や書に天才的才能を発揮した「風流天子」であったが、悪政に次ぐ悪政で宋を亡国に導いてしまった稀代の暗君としても知られる。
本名は趙佶。
経歴
諱は佶。1100年、兄の哲宗が崩御した際、息子がいなかったため、佶が徽宗として皇帝になった。重臣たちは佶の皇帝としての資質に疑念を抱いていたため他の皇子を皇帝に推したが、皇太后の意向により彼が皇帝に決まったとされている。
19歳で即位する以前のアダ名は浪子、すなわち遊び人。この段階で君子としての素質には大いに疑問があったと思われる。
治世当初は、芸術への情熱を抑えて当時の官僚同士の政争(新法・旧法の争い)を何とかしようとしたが、うまくいかなかった。
そのうちに新法派の蔡京を趣味が合うという理由で重用するようになり、徽宗は政務への情熱を失っていく。蔡京は反対する官僚は旧法派・新法派を問わず政界から追い出して、徽宗の機嫌を取るために重税を民衆から搾り取った。とはいっても徽宗も蔡京の暴走を快くは思っておらず、左遷や閑職に追いやるなどして、次第に権力をそいでいった。しかし、蔡京以外の徽宗の側近も、似たような傾向のろくでもない人物が多く、その悪政ぶりは未来に「水滸伝」の元ネタにされている。高俅もそれらの側近の一員だが、その中でもまだ小粒だというのが現実の恐ろしさ(高俅は徽宗が帝位を失った後に弾劾された蔡京や童貫を始めとした奸臣達、通称【六賊】には含まれていない)。
軍事費の着服なんてとんでもない真似をやった高俅が、悪党としては小物で、もっと酷い悪事をやった奸臣がゾロゾロ居るという事こそが、この時代のズンドコぶりを象徴しているとも言える。
ついでに、この時代最大の奸臣である蔡京は、書道においては宋代の4大書家に数えられる事も有り、詩や絵や美術品の鑑定においても一流で、官僚・政治家としては極めて有能であった。ただし、政治家・官僚としての有能さは「能力・手腕は凄いが、何の理想・思想もない」「政界で生き残り出世する事に関しては超一流。政策立案などに関しては酷すぎて問題外」という国を滅ぼしかねないタイプの有能さではあったが。
そんな感じで、途中までは何とか帝王としての務めを果たそうとしてきた徽宗であったが、途中から嫌になってほぼ完全に趣味の世界へ逃避するようになる。
しかも資金源はその蔡京や童貫たち俗に言う「悪代官」によって民衆に課された重税、その税金の事実上の着服である。さらに自らの芸術の糧とするために庭園造営に用いる大岩や珍木を遠く長江以南の華南地方などから運河を使って開封まで運ばせるなど無茶を部下に課していった。これらは今日いうところの芸術振興の名目で次第にエスカレートしていった。
これと並行して自身の権力強化にも余念がなく、たびたび中間管理職の頭越しに御自ら命令を出すなどして現場を混乱させたという。これによって徽宗とそれを取り巻く側近連中による独裁が成立することになり、これを諫めるべき宰相や執政の力は失われることになった。
最終的に徽宗に付せられたアダ名こそが、芸術とその華美さにのみ焦点が当てられた「風流天子」であったのである。(ちなみに「風流」には別の意味も有るせいか、水滸伝では徽宗が、そういう場所に御忍びで出入りしている場面まで有る)
『チャイナの絵画を一つの到達点に導く』・『著名な書式痩金体を創造』という偉業を成しながらも、『悪代官を放置、最悪の場合は優遇させる』・『国民から税金を絞り上げてそれを自分の趣味に注ぎ込む』・『質素倹約をモットーとする儒教政治の反対をいく金権政治を蔓延させて国政をムチャクチャにする』というやらかしを直実に積み上げていった。
現代における文部科学省に準ずる翰林院を充実させるなんてこともしているが、これもひとえに自分の芸術のためである。
そもそも、当時の庶民は文字すら読めず多くはその日暮らしという世相の中で芸術に傾倒できるのは一握りの富裕層だけであり、碌な経済政策をとらずに重税頼みでの芸術振興では一般庶民になにが還元されるわけでもないので事実上の百害あって一利なしだったわけである。この反動は各地での反乱というかたちで湧き出ている。
そんな末期的な状況の宋だったが、北方の強敵だった遼国はそこにつけ込むどころではないほど弱体化していた。そこで徽宗はいらん欲を出し、遼の北東の金国と手を組んで遼を滅ぼそうという野心を抱く。しかし宋の弱体な軍隊は、滅亡寸前の遼の軍隊にすらぼろ負けする始末で、やっと手に入れた遼の旧領は金の軍隊が略奪した後だった。
そんな状態でなぜそんな事を考えるのか、もはや理解の範疇外だが、徽宗は金が支配下に置いた地域まで欲を出し、遼の生き残りとともに金を攻撃しようとする。
これに金国を率いる満州族たちは、有史いらい漢民族によって蛮族(というか人外)扱いされてきた鬱憤を爆発させ、本気で北宋を滅ぼすために侵攻を開始する。
そして金の軍隊が攻め寄せると徽宗は講和金5000両と宋国の領土割譲、さらに皇族の一部を人質に差し出すことを条件に一時的に和議を結ぶが、この隙に息子の桓(欽宗)に譲位して、側近達を連れて帝都である開封から逃げ出す。
あまりの醜態に頭に来たであろう欽宗は徽宗を連れ戻し、童貫ら側近達とその一族をことごとく処刑した。俗に言う九族皆殺しである。
欽宗はさらに芸術振興の名目等で存在したムダな公共事業を廃止するなど行政改革に着手した。これらに徽宗は自分の知己が殺され芸術という青春が台無しになっていく有り様を嘆き悲しんだというが、亡国の瀬戸際で指揮を執る息子にはそんなこと構っている場合ではなかった。
しかし、一難が去った直後に政府内で金軍追捕(=征伐)の強硬論が浮上。ようは大負けしたのに現実を無視して倍返しだ!と叫び出してしまったのである。強硬派の一部は金国へ割譲するはずの領土の引き渡しを激しく拒んだ。そして、何とまた遼軍の残党と結託しようとする。当然これは金軍の耳へと入り、文字通りマジギレした彼らは一時は翻した軍勢を再び帝都である開封へと差し向けた。
1126年、金の軍隊が開封を陥落させた際に徽宗と欽宗は捕まり、金の領内のはるか北方に幽閉され、そのまま一生を終えた。
なお、この時、徽宗は金により「昏徳公」に封じられている。要は敵国によって処刑される代りに「暗愚な君主」「バカ殿」を意味する称号を授けられるという羞恥プレイを受けた訳である。
金軍は開封を含めた宋の帝都圏である華北地方を制圧した。これをもって「北宋」は滅亡したのである。この一連の動乱を靖康の変という。
この間、宋国の各地で金軍や統制を失った宋軍の逃亡兵らによって虐殺・強姦・略奪が繰り広げられたのはいうまでもない。
さらに、後宮の100人を超える妻妾、30人を超える息子、30人を超える娘の殆どもともに捕まり、妻妾と娘達のほとんどは鬼畜系エロゲさながらの末路をたどったという。
子孫は金の領内で軟禁されていたが、徽宗と欽宗の死後、海陵王により男性は皆殺しにされたという。
唯一脱出に成功した徽宗の九男である高宗(欽宗の弟)が現在の南京で宋国を再興したのは翌1127年のことであった。これを南宋という。
高宗の息子が早世したため遠縁の親族を養子にして皇位を継がせたので、徽宗の男系末裔は断絶している。
「宋史」の編纂に関わったモンゴル帝国のトクトによる評価は、「何でもできたが、君主だけはできなかった」というある意味で的確な評価をしている。
他方で作家の陳舜臣は、南宋を興した高宗が一時は金軍への人質に出された後に色々あって返却された経緯があるので歴史を誇張した可能性があると「小説十八史略」で述べている。その皇位継承がかなりドサクサ的だったので高宗はある種の劣等感をもっていたのは事実ではある。
(まあ、どっちにしても趣味に没頭しまくって国の腐敗と他国の武力侵攻を止められなかったという事実は曲げられないわけだが……)
ちなみに、実は天下統一した歴代中華王朝の大部分は内乱によって国が滅んでいるのだが、北宋と南宋だけは異民族の直接の侵略によって滅亡している。
つまり徽宗は数少ない「異民族侵略を招いて国を滅亡させたチャイナ皇帝」という評価も背負っているのである。
より詳しくは、Wikipedia「徽宗」やWikipedia中国語版「宋徽宗」などへ。
靖康の変、その結末
徽宗の怠惰と佞臣の無能によって北宋滅亡という結末になったこの『靖康の変』……
日本ではマイナーな出来事だが、詳細をまとめると
- 異民族がつくった隣国に舐めプしたら逆襲をうけて国が滅亡
- そもそも国内政治が汚職まみれで腐っていた
- 文化人と持て囃されていた皇帝が逃亡、しかも息子に連れ戻され失敗
- 皇帝と皇太子が捕虜になりはるか北の凍土(黒竜江沿岸)で死ぬまで抑留
- 王侯貴族の女性(皇妃、王女ほか)の大部分が性奴隷に堕とされる
- なお男性の王侯貴族と一般市民は(お察し下さい)
……というドン引きもので、書いて字がごとくの敗戦国の末路なのである。
当然ながら中国史においてはキーポイントのひとつであり、(多分にインガオホーではあるが)一説にはこの時にうけた金国による壮絶なジェノサイドの影響により漢民族の価値観が激変し現中国の厳しい異民族政策の遠因になっているともされる。
金国は舐めプを受けた屈辱を忘れず、再興された南宋へも侵攻を開始。しかし、遙かな長江の流れと岳飛や韓世忠・梁紅玉夫妻ら武将の勇戦によりこれは防がれた。
岳飛たち有力武将は華北回復や徽宗・欽宗奪還のため徹底抗戦を主張した。しかし、国力の限界もあり、しかも本当に他の皇族が帰還したら自分の皇位が危うくなるという高宗自身の保身も働いてしまい、そのためこの意を受けた宰相秦檜の謀略によって岳飛は無実の罪で処刑、韓世忠らも兵権を奪われた。秦檜は金国が占領している国土を割譲し、南宋から毎年銀25万両と絹25万疋を金国に貢するという屈辱的な内容の「紹興の和議」を結び、これをもって金国は留飲を下げた。
この結果、南宋はモンゴル帝国によって征服されるまでの百年の平和を手に入れたが、後世に秦檜は漢賊もしくは漢奸(=売国奴、民族の裏切り者)と断罪された。その政治手腕への評価は今日まで定まっていない。反対に、岳飛は救国の英雄と現在まで称えられる。
そして、前述のとおりこの顛末の全ての元凶は徽宗の政治手腕の無さといっても仕方がない部分が多くある。
もっといえば、徽宗と欽宗、そして他の皇族らは「紹興の和議」をもって事実上祖国から見捨てられたのである……
余談
かの北大路魯山人は、晩年に文部省(当時)から人間国宝指定の要請をうけたときにこれを断る方便として「どんな勲章をよこすにしても、よこす相手が問題だよ。徽宗皇帝ほどの相手がくれるというんなら、もらってもいいけどな」と述べたとされる。
後年、作家の田中芳樹は自著である(例のアレ)でこの逸話を取り上げて徽宗の文化面での崇高さを述べつつ「ここで『風流天子』を持ち出して俗な日本官庁をぶった切る魯山人TUEEE!!」「権力に媚びない魯山人のこのスタンスこそ反権威の真骨頂である」(要約)と激賞した。
ただし、田中は他の作品である『紅塵』などでは特に徽宗と高宗を事実上の暗君として扱っている。
また、発言をした当該作品がバブル期前後の退廃的な世相を醜悪にデフォルメしたうえでこれを徹底的に罵りぬく内容であり、そこで描かれている世界観はまさに徽宗時代の北宋もかくやというさまでもあったので、結果的に自身の主張に矛盾が生じてしまっている。
これに高宗に仕えた南宋の忠臣岳飛をめぐる田中の評価も相まって、田中本人の元には中国史や日本政治に強いユーザーからツッコミが多数寄せられることになった。
メタなことをいうと、田中はこの当時に当該作品のあまりもトンデモな内容が祟ったせいか「文部省から内容是正命令がきている」と発言しておりともすれば文部省の意向に逆らったことのある魯山人にあやかろうとした可能性があるが、少なくとも自身が口角泡を飛ばす勢いで非難しまくっていた「政治業者」、その傀儡であった徽宗を引き合いに出したのは失敗であった。
逆に言えば、徽宗と北宋末期をめぐる評価には未だにデリケートな部分が多いことの裏返しともいえる。
そもそも、教養深い魯山人が徽宗の詳細な経歴を知らなかったとは考え難く、その偏屈と称されることの多かった性格を加味してこの発言を深掘りするならば徽宗の文化功績を賞賛しているかに見せかけて「ナポレオンいうところの『死んだ皇帝』」&「政治的には『チャイナ随一のバカ殿』」という含みをもたせていると考えたほうが自然である。
ようは、「俺にノーベル賞を渡したいなら偉大な総統閣下か鋼鉄の最高指導者でも連れてこい」みたいなことを遠回しに伝えるためのタチの悪いブラックジョークだった線のほうが強かったりもする。
やはりというか、読者の一部からは「徽宗と魯山人をダシにして政治批判している暇があったら取り返しがつかないくらいメチャクチャになっている本編をさっさと終わらせてくれ!」とガチの悲鳴があがったという。
しかし、田中は昭和62年(1987)に開始された例の作品を平成15年(2003)刊行の13巻で一時ボイコット、最終巻である15巻が発売されたのはコロナ禍まっさかりである令和2年(2020)であった……