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コダマ(競走馬)

こだま

JRAの元競走馬・種牡馬。1960年年度代表馬・最優秀4歳牡馬。主な勝ち鞍は1960年のクラシック二冠(皐月賞・東京優駿(日本ダービー))・1962年宝塚記念。
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概要編集

1957年4月15日生まれ。父ブッフラーはイギリス産の馬で、彼にとっての初年度産駒でもあった。母は1949年の日本ダービーで歴史的大波乱の末に2着となったシラオキ

半弟に皐月賞シンツバメ、京阪杯優勝馬タツテル、大阪杯優勝馬ホマレイチがいる。名の由来は当時国鉄の看板特急「こだま」から取られた。


1959年にデビュー。当時の関西リーディングだった栗田勝を鞍上に、先行策から直線でムチを使われることなく2馬身半差で勝利した。この内容を見た管理調教師である武田文吾は、馬主・伊藤由五郎の子息・英夫と協議し、コダマを翌年春の日本ダービーを見据えたローテーションを企画する。2戦目の宝塚3歳ステークス(オープン戦)も追われることなく、5馬身差で勝つと、シーズン最後の出走となった関西の3歳王者戦・阪神3歳ステークスでは圧倒的な1番人気に推されると、先行2番手から直線で他馬を突き放し、2馬身差で優勝した。当年3戦3勝の成績を挙げたが、最優秀3歳牡馬には関東の朝日盃3歳ステークスを含む4戦4勝の成績を挙げたマツカゼオーが選出された。


1960年の初戦オープン競走では、2馬身差で逃げ切り、東上したスプリングステークスで連勝を6まで伸ばしていたマツカゼオーと対戦。レースでは最下位に沈んだマツカゼオーを尻目に4馬身差で逃げ切り、名実共にクラシックに向けての本命馬となった。そして皐月賞では雨後の重馬場のなか向正面で先頭に立つと、そのままマツカゼオーに6馬身差をつけて優勝。このレースで騎乗した渡辺正人は前々年のタイセイホープ、前年のウイルディールに続く、史上初の皐月賞(同一クラシック競走)三連覇を達成した。


同年5月の日本ダービーに向けてコダマの人気は一層の高まりを見せ、1951年に10戦無敗のまま死んだ『トキノミノルの再来』とも謳われ、日ごろ競馬を見ない人々にまでその名が伝えられたが、人気の高まりとは裏腹に、コダマは調教中に蹄鉄が外れ、左前脚の不安のために予定していた前哨戦を使えず、3日間調教を休むなど順調さを欠いていた。ダービー直前の最終調教では左前脚の蹄鉄が再び外れ、馬主の伊藤由五郎はありとあらゆる神社に願をかけ、大阪から東京競馬場に応援に赴く子息・英夫に対しては験を担いで「第一こだまの、一号車の一番前に乗るように」と命じたという。


日本ダービー当日は約7万人の観客が集まり、4億円以上を売上げるという当時としては大幅な記録を更新した。こうしたなか怪我から復帰したてのコダマは、単勝オッズ1.9倍の1番人気に支持された。レースでは道中3番手を進むと、最後の直線で先頭に立ったヤマニンモアーを楽にかわし、1馬身3/4差を付けて優勝。無敗でのクラシック二冠はトキノミノル以来9年ぶり2頭目、また当時、東西所属馬の勢力が東高西低とされていたなか、関西馬のダービー優勝はボストニアン以来7年ぶりの出来事であった。また、余談だがこの年まで中央競馬はバリアー式ゲートを用いており、コダマはバリアー式ゲートで勝利した最後のダービー馬である。


日本ダービーの後は休養に入り、秋はセントライト以来2頭目のクラシック三冠が懸かる菊花賞を目標としたが、脚部の不安のため調教が順調に進まなかった。そしてオープン競走に出走するも、フランケルの2着と敗れ、デビュー以来の連勝を7で止めた。続く阪神大賞典(当時芝2200m、かつ秋季に行われていた)もヤマニンモアー、シーザーに後れての3着と敗れたが、三冠に向けてコダマを本命視するマスコミの報道は収まらず、武田師も「コダマはそれほど強い馬ではない。春は仕上がりが順調で好成績を収めてきたが、秋には相手の進境が著しい。春シーズンとは事情が異なっている。」と語っている。そして菊花賞では、厩務員組合がストライキを決行、調教師会長の武田も事態の収拾に当たり、解決したのは競走の2時間前という異様な状況下で行われた。1番人気に支持されたが、キタノオーザの5着と敗れ、三冠は成らなかった。


年末にはグランプリ競走・有馬記念にファン投票1位で出走したが、当日は5番人気と評価を落とし、結果も牝馬スターロッチの6着に終わった。4戦全敗となったが、クラシック二冠が評価され、コダマは当年の年度代表馬と最優秀4歳牡馬に選出された。


5歳となった1961年は、3月の復帰戦大阪杯スワンステークスを連勝し、天皇賞(春)に向けて視界良好と思われたが、その直前に右前脚に屈腱炎を発症し、休養を余儀なくされる。温泉療養の後、天皇賞(秋)に備えて同年9月に東京競馬場に入ったが、調教中に屈腱炎が再発し、再度休養に入った。


1962年4月、オープン競走で復帰しメジロオーの2着。天皇賞(春)を回避してオープン競走を2連勝したのち、当時創設3年目の宝塚記念を制した。しかし競走後に肩などを痛め、これを最後に引退し種牡馬入りとなった。


種牡馬入り後、初年度産駒から重賞3勝のサトヒカル、2年目からは同5勝を含む17勝を挙げ、1969年度の最優秀5歳以上牝馬に選出されたファインローズ、そして3年目の産駒からはクラシック競走の桜花賞を制したヒデコトブキが生まれた。その後は目立った活躍馬が生まれず、1974年に鹿児島県の吉永牧場(吉永正人騎手の実家)に移り、1976年6月に腰麻痺のため同牧場で死亡した。


余談編集

管理した武田文吾調教師はコダマの走りを、俊敏な走りから「カミソリの切れ味」と評し、のちに管理したシンザンとの比較でも「コダマはカミソリの切れ味で、シンザンはナタの切れ味」と呼んでいる。


コダマ(オリジナルウマ娘)

pixivではこの競走馬を元ネタとするオリジナルウマ娘が投稿されている。

コダマ(ウマ娘)


関連タグ編集

二冠馬 競走馬 顕彰馬


シンザン(競走馬) - のちに武田文吾厩舎に入る後輩で、三冠馬になる。

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