ブライアン・シコースキー
ぶらいあんしこーすきー
ウエスタンミシガン大から1995年のMLBドラフト4巡目でヒューストン・アストロズに指名され入団。
1999年途中にFAからテキサス・レンジャーズに移籍。翌2000年にメジャー昇格を果たした。
2001年シーズン途中に来日し、千葉ロッテマリーンズに入団。この年は12試合で防御率5.73と振るわなかったが残留。2002年、2003年と右の中継ぎとして2年連続で50試合に登板し、小林雅英、川井貴志、小林宏之らと強力リリーフ陣を形成。
2004年、2005年は読売ジャイアンツでプレー。堀内恒夫政権下の脆弱なリリーフ陣の中で岡島秀樹とともにブルペンを支えた。
2005年オフに巨人から戦力外通告を受けると、東北楽天ゴールデンイーグルスと契約するがシコースキーがアメリカでのプレーを急きょ希望したため自由契約にされる。その後サンディエゴ・パドレスと契約する。
翌2006年のシーズン途中にクリーブランド・インディアンスに移籍する。
2007年に再来日し、東京ヤクルトスワローズとシーズン途中に契約。ここでもリリーフ陣の一角として活躍するが、契約更改で交渉がまとまらず自由契約になる。
2008年、5シーズンぶりに千葉ロッテに復帰。川崎雄介、荻野忠寛らと勝利の方程式を確立。翌2009年は両者の不振からクローザーを務め、15セーブを挙げた。
2010年からは埼玉西武ライオンズへ移籍。当初はアレックス・グラマンへつなぐセットアッパーとして起用する予定が、グラマンの戦線離脱と大沼幸二、小野寺力の開幕二軍スタートなどが重なったため、いきなり藤田太陽、長田秀一郎とともに終盤の大事な局面を任せられるようになる。この年も抑えとして30セーブを挙げ、自身初タイトルとなる最多セーブ王を獲得。
2011年は東日本大震災の影響で一時帰国し、開幕は二軍スタート。しかし右ひじ痛の影響で4試合にしか登板できず、シーズン途中で自由契約となる。
2012年はカナダの独立リーグでプレー。シーズン終了後、西武の入団テストに合格し、1年半ぶりの復帰となった。しかし、右膝の故障で一軍登板は無く、シーズン中の8月に退団。
その後現役を引退し、2015年にテキサス・レンジャーズのプロスカウトに就任した事が発表された。