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ロバート・フリップ

ろばーとふりっぷ

イングランド出身のギタリスト、プロデューサー。キング・クリムゾンのリーダーとして知られる。
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Robert Fripp(1946年5月16日~)


概要

イングランド出身のギタリストプロデューサー

プログレッシブ・ロック・バンド「キング・クリムゾン」のリーダーとして知られる。

ギターとその演奏を通じた心身の修練を目的とした「ギタークラフト」の主宰、Windows Vista起動音作曲なども手がけた。

若き日のフリップには音痴リズム感に欠けるというハンデがあり、それをカバーするための変則チューニングや精密なクロスピッキングを多用した。また、様々なジャンルの音楽を経験したが、当時のロック・ギタリストにとって必須だったブルースを経ていない事も彼の個性となっている。

左利きだが右利きのフォームで演奏する。


来歴

誕生より青年期まで

1946年、ボーンマス市郊外のウィンボーン・ミンスターで父アーサー、母イーディスの間に生まれた。父は労働者階級の出身だったが母の稼ぎを元手に不動産会社を創業しており、裕福な家庭に育った。

1957年、両親からクラシック・ギターを買い与えられ、ギター教室に通う。そこでグレッグ・レイクと知り合った。

1960年、チャーリー・パーカーチャールズ・ミンガスに影響され、ジャズを演奏するようになる。

1961年、最初のバンド参加(「レイヴンズ」)を経験。ゴードン・ハスケルと知り合った。

1963年、「レイヴンズ」が「リーグ・オブ・ジェントルメン」に発展。

1965年、不動産鑑定士になるためボーンマス大学に入学。ジョン・ウェットンリチャード・パーマー=ジェイムズと知り合った。アンディ・サマーズの後任としてボーンマス・マジェスティック・ホテル専属のジャズ・バンドで演奏する。


1967年、ジャイルズ兄弟(ピーター・ジャイルズマイケル・ジャイルズ)のバンド・メンバー募集広告に応募。ジャイルズ兄弟が募集していたのは歌えるキーボーディストだったが採用され、「ジャイルズ・ジャイルズ&フリップ」が結成される。

1968年、「ジャイルズ・ジャイルズ&フリップ」が『チアフル・インサニティ・オブ・ジャイルズ・ジャイルズ&フリップ』でデラム・レコードからデビュー。しかし、全く売れなかった。

元・フェアポート・コンヴェンションジュディ・ダイブルが出したメンバー募集広告を見たピーター・ジャイルズが彼女と交渉した結果、ダイブルとボーイフレンドイアン・マクドナルドがバンドに加入するがダイブルはすぐ抜ける。


キング・クリムゾン結成

リード・ヴォーカルとしてグレッグ・レイク、作詞担当としてピート・シンフィールドを呼ぶが、ピーター・ジャイルズが抜けたのでレイクは歌いながらベースを弾く事となる。ピート・シンフィールドの提案でバンド名が「キング・クリムゾン」となる。

1969年7月5日、「キング・クリムゾン」がハイドパークロンドン市)でのブライアン・ジョーンズ追悼コンサートに出演し、各メディアで絶賛される。観客の中には後にメンバーとなるジェイミー・ミューアもいた。

1969年10月10日、「キング・クリムゾン」がアイランド・レコードから1stアルバム『クリムゾン・キングの宮殿』を発売。全英アルバム・チャート5位に達するヒットとなる。

しかし、その後行われたアメリカ・ツアー終了と共にマクドナルドとマイケル・ジャイルズが方向性の相違を理由に脱退し、マクドナルド&ジャイルズを結成。マクドナルドは実質的なリーダーだったため、フリップは「自分が出ていくので辞めないでくれ」と頼むが引き留めることは出来なかった。

1970年、「キング・クリムゾン」は契約消化のため2ndアルバムの録音に入るが、キース・エマーソンの引き抜きに遭ってレイクは途中から出てこなくなり、「エマーソン・レイク・アンド・パーマー」に参加した。残ったプレイヤーはフリップだけになってしまう。フリップはジャイルズ兄弟やキース・ティペットの協力を仰ぎ、ゴードン・ハスケルやメル・コリンズを加入させてどうにか乗り切った。


5月15日に発売されたアルバム『ポセイドンのめざめ』は全英アルバム・チャート4位に達するヒットとなる。

その後アンドリュー・マカロックを加入させて3rdアルバムの録音が始まり、キース・ティペット・グループが全面協力。フリップはハスケルのヴォーカルに不満だったため、「イエス」のジョン・アンダーソンもゲスト・ヴォーカリストとして呼ばれた。制作終了後、ハスケルとマカロックが脱退した。


12月にアルバム『リザード』が発売された。イアン・ウォーレスが加入。

1971年4月、「センティピード」のアルバム『セプトーバー・エナジー』をプロデュース。

「センティピード」のレコーディングで知り合ったボズ・バレルをリード・ヴォーカル、リック・ケンプをベースとして加入させるが、ケンプがすぐ辞めたのでバレルにベースの弾き方を教える。アルバム制作と並行してアメリカ・ツアーを行うが、フリップと他メンバーの人間関係は険悪になる。


12月にアルバム『アイランズ』が発売された。リリース後すぐにフリップはシンフィールドを解雇

1972年1月、リハーサル中にコリンズの作品をフリップが否定したことでフリップと他メンバーの対立は決定的となった。フリップはバンドを解散するつもりだったが、アメリカ・ツアーの契約がまだ残っており、渋々ツアーを消化した。

4月、「キング・クリムゾン」が解散。

キース・ティペットのソロ・アルバム『ブルー・プリント』をプロデュース


6月9日、前年のアメリカ・ツアーの音源から初のライブアルバムアースバウンド』が発売されたが、非常に劣悪な音質の録音だった。

フリップは「マッチング・モウル」のアルバム『そっくりモグラの毛語録』をプロデュース。レコーディングで知り合ったブライアン・イーノと意気投合し、9月8日にイーノの自宅で『ヘヴンリー・ミュージック・コーポレーション』を録音した。


「太陽と戦慄」期

フリップの頭には「キング・クリムゾン」の再構築があり、「イエス」からビル・ブルーフォードブラッフォード)、「ファミリー」からジョン・ウェットン、「サンシップ」からジェイミー・ミューア、「ザ・リング」からデヴィッド・クロスを引き抜き、技巧派集団としての陣容を整えた。作詞担当としてウェットンがリチャード・パーマー=ジェイムズを呼んだ。

1973年2月、ミューアが脱退し、仏教修行に入る。

3月23日にアルバム『太陽と戦慄』が発売された。高度な技巧、前衛的な音楽性が高い評価を得、「キング・クリムゾン」はライブ・バンドとしてのピークを迎えた。

8月4日、イーノの自宅で『スワスティカ・ガール」が録音された。

11月にイーノとの共作アルバム『ノー・プッシーフッティング』(フリップ&イーノ)が発売された。


1974年3月29日にアルバム『暗黒の世界』が発売された。スタジオ・レコーディングとライブ・レコーディングが混合された変わった構成になっている。

「キング・クリムゾン」は3月から7月にかけてヨーロッパ、アメリカをツアーで回るが、フリップはクロスのプレイに不満で解雇した。

その後、新作アルバムの録音が始まり、元メンバーのマクドナルドやマイケル・ジャイルズ、コリンズもゲストで呼ばれた。

9月27日、フリップは「キング・クリムゾン」の解散を宣言し、アルバム『レッド』が発売された。メンバー間の対立が深まり一緒に写真を撮る事すら出来ない状態だったため、表ジャケットのメンバーの集合写真合成である。


ソロ、コラボ、プロデュース活動の進展

1975年12月にイーノとの共作アルバム『イブニング・スター』(フリップ&イーノ)が発売された。

1977年、ダリル・ホールとの共作アルバム『セイクレッド・ソングス』を録音するが、ホール&オーツの音楽性と違いすぎるため1980年まで発売されなかった

1978年、ピーター・ガブリエルの2ndアルバム『II』をプロデュース。

1979年、ソロ・アルバム『エクスポージャー』を発売。

1980年、ソロ・アルバム『ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン』を発売。自ら開発したフリッパートロニクスディスコトロニクスにより録音された。

1981年2月、元XTCバリー・アンドリュースと組んだニューウェーブ・バンド「リーグ・オブ・ジェントルメン」の1stアルバム『リーグ・オブ・ジェントルメン』を発売。

ソロ・アルバム『レット・ザ・パワー・フォール』を発売。フリッパートロニクスにより録音された。

ブルーフォードと共同で、「ディシプリン」という名のプロジェクトを開始した。その後トニー・レヴィンエイドリアン・ブリューも加わる。


「ディシプリン」期

商業的な理由からバンド名を「キング・クリムゾン」に変更し、9月22日にアルバム『ディシプリン』が発売された。アフリカ民族音楽の影響でポリリズムを取り入れ、かつてとは様変わりしたニューウェーブ的な内容に従来のファンは賛否両論だった。

1982年6月、「ローチェス」のアルバム『キープ・オン・ドゥーイング』をプロデュース。

7月、「キング・クリムゾン」のアルバム『ビート』が発売された。

アンディ・サマーズとの共作アルバム『心象表現』を発売。

1984年3月、「キング・クリムゾン」のアルバム『スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー』が発売された。

7月、「キング・クリムゾン」を解散。

アンディ・サマーズとの共作アルバム『擬制の映像』を発売。

1986年、歌手女優トーヤ・ウィルコックスと結婚。

1992年、自らのレーベルディシプリン・レコード(後のDGM)を設立。


「ヴルーム」期

1994年、「ディシプリン」期のメンバーにトレイ・ガンパット・マステロットを加え、「キング・クリムゾン」を再結成。6人編成となり、フリップは「ダブル・トリオ」と称する。このメンバーでミニ・アルバム『ヴルーム』が発売された。

1995年、「キング・クリムゾン」のアルバム『スラック』が発売された。1997年まで続くワールド・ツアーを開始。

1997年、「キング・クリムゾン」の活動方針を巡って内紛が起きたため、バンドを長期的に維持するのは難しいと考えたフリップは「キング・クリムゾン」を実験音楽の小ユニット「プロジェクト」に分けて2014年まで活動する。ブルーフォードとレヴィンは1998年に脱退した。

2000年、「キング・クリムゾン」のアルバム『ザ・コンストラクション・オブ・ライト』が発売された。

2003年、「キング・クリムゾン」のアルバム『ザ・パワー・トゥ・ビリーヴ』が発売された。同年秋にガンが脱退し、レヴィンが復帰。

2004年、リハーサルを重ねるが上手く行かず、「キング・クリムゾン」は活動停止。


2006年、ジョー・サトリアーニの企画「G3」に参加し、サトリアーニ、スティーヴ・ヴァイとツアーを行う。

2008年4月、ギャヴィン・ハリソンを加入させ「キング・クリムゾン」の活動を再開。ツアーも計画されるがブリューが自らのソロ・ツアーを優先したため頓挫。フリップとブリューの確執が目立ち始める。「キング・クリムゾン」は活動停止。

テオ・トラヴィスとの共作アルバム『スレッド』(トラヴィス&フリップ)を発売。

2011年、コリンズ、ジャッコ・ジャクジクと「ア・キング・クリムゾン・プロジェクト」を立ち上げ、『ア・スケアシティ・オブ・ミラクルズ』を発売。「キング・クリムゾン」の活動再開に向けて準備を進める。


引退と復帰

2012年8月3日、フリップはインタビューに答えて「ユニバーサル・ミュージックとの法廷闘争に専念するためミュージシャンを引退した」と語った。

2013年、ユニバーサル・ミュージックと和解ビル・リーフリン、ジャクジク、コリンズのラインナップで「キング・クリムゾン」を再結成。

2014年、レヴィン、マステロット、ハリソンが復帰し「キング・クリムゾン」はドラマー3人体制となる。

2016年、リーフリンが脱退し、ジェレミー・ステーシーが加入。

2017年、1月3日、リーフリンがキーボーディストとして復帰。8人編成となり、フリップは「ダブル・カルテット」と称する。

10月13日、リーフリンが体調不良のためアメリカ・ツアーに参加しない事を表明。

2020年3月24日、リーフリンが癌により死去。

2022年7月、フリップは「我々の年齢からして今後のツアーは難しい」とツアー引退の意向を示した。


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