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概要編集

1982年6月9日生まれ。福岡県出身。ポジションはフォワード。


2001年に目標の森島寛晃が所属していたセレッソ大阪でプロデビュー。ジュビロ磐田戦で初ゴールを挙げたが、同時にこの試合で退場してしまう。


2004年にスペインRCDマヨルカへレンタル移籍。強豪相手にゴールを決めるなどインパクトを残しチームの残留に貢献した。しかし翌年は新監督の信頼を得られずに退団。


2006年にセレッソに復帰するが、チームはj2降格。その後、ヴィッセル神戸からのオファーを受け、完全移籍。本来のポジションではなく左MFとしての出場が続いたが、チームに貢献していた。


2009年、ドイツのVfLヴォルフスブルクにレンタル移籍。しかし、同時期に在籍し、クラブにも長く貢献した長谷部誠選手とは対照的に出場機会を得られないまま、ブンデスリーガ優勝を果たしたにもかかわらずその輪に加わることなく、翌年に控えたワールドカップ出場を目指してチームを退団した。


2010年にヴィッセルに復帰。同年は左膝内側側副靭帯損傷、鼻骨骨折などの怪我に見舞われるが、ワールドカップ南アフリカ大会に臨む代表メンバーに選出された。本大会ではグループリーグ三試合と決勝トーナメント一回戦に左サイドハーフとして先発出場し、攻撃だけでなく守備にも積極参加し、献身的なプレーで決勝トーナメント進出に貢献した。


帰国後も最前線で起用され、ゴールをあげていたものが、後に自身の著書で「もう試合終盤かと思ったらまだ前半2分だった」と語るほどの極度疲労、いわゆる燃え尽き症候群を発症。その後も復調することなく、1桁のみの得点が続くと、2012年にヴィッセルは降格。チームとホームタウンに愛着があったために残留を希望していたが、チームからは「金はやるから移籍先を探してくれ」と戦力外通告を受け、移籍を余儀なくされた。


3年連続得点王とその後編集


2013年、長年苦しみ、どこのクラブでも絶対的な存在になり切れていなかった彼に転機が訪れる。当時、風間八宏監督の元変革期にあった川崎フロンターレへの移籍である。2012年の年末、当初は韓国中国への移籍を考えていた中でオファーが届く。奥さんに「海外に行ったら大久保嘉人は忘れられる」と言われたことで川崎に移籍。ここで自らの役割を攻撃に特化した結果チームの中でその戦術にフィットし、独創色の強い風間サッカーの要として活躍。その結果、絶頂期を迎えた。クラブのバンディエラで、後に自らの選ぶベストイレブンなどにも「一緒にやった中で最高」と語るほどのパサー中村憲剛の存在もあって26得点をマーク、Jリーグ得点王となった。フロンターレサポーターはスタンドに通算ゴール数を示すYOSHI_METER(ICHI_METERのパロディ)を設置しているが、この回転が非常に速い。


この活躍もあって、2014年FIFAワールドカップにも2大会連続で代表選出。しかし、当時の絶対的コンビの相方である憲剛が落選。憲剛の存在が活躍に直結していたために「憲剛なしでは大久保は活きない」「憲剛を呼べ」といった声もあり、案の定この予想は的中し、GL敗退となり、結果的に最後のワールドカップとなった。


2014年には18得点、2015年には23得点を記録し、Jリーグ史上初の3年連続得点王となった。また、2年連続単独での得点王も史上初の快挙であった。


しかし、風間監督時代は得点も多い半面、失点も多かったこともあり、最後まで優勝することなく契約満了を迎えることとなった。


2017年、熱心なオファーのあったFC東京に移籍。この年のFC東京は大型補強を敢行したものの、チーム状況は低迷し、自身にパスを出してくれるパサーがいなかったことも影響してか得点数も8までに減ってしまった。


2018年には前年に初タイトルを獲得した川崎から再びオファーがあり、川崎に復帰。しかし、彼が復帰したときには2016年までのFWとしての相方であり、大久保の抜けた前年には23得点をあげJ1得点王とMVPをダブル受賞した小林悠が彼の穴を埋めており、2番手にも前年に1年目の出場が4試合1得点のみながらもその1点で勝ち点を拾った形でタイトルに貢献し、この年出場機会を増やしていた知念慶がいたこと、風間監督の後任である鬼木達監督が前任の路線を引き継ぎつつも風間監督よりも現実的な戦い方をしていたこともあり、2得点を挙げたものの途中出場が多く、出場機会も減っていた。


その後、コミュニケーション力で他クラブの戦力を引き抜いてきたお人好しとして知られる名波浩の熱烈オファーを受けて同年6月にジュビロ磐田へ移籍。当時のジュビロは、中村俊輔の活躍もあって6位に飛躍した前年から一転して低迷しており、名波監督は経験豊富な彼に目を付けたのである。第23節ではJリーグ通算200得点と通算100枚目のイエローカードを同じ試合にもらうという、ある意味彼らしい試合となった。


最終節では、等々力で古巣の川崎と対戦。この時点で川崎はj1連覇を決めた後で、ジュビロの残留には引き分け以上という条件であった。試合は後半に彼の得点で先制するが、交代直後に同点、さらにロスタイムには逆転弾となるオウンゴールで敗戦。この結果、ジュビロは12~15位である横浜F・マリノス湘南ベルマーレサガン鳥栖名古屋グランパスと勝ち点41で並ぶも、得失点差でJ1参入プレーオフ対象である16位に転落。その後、プレーオフで勝ち抜いてきた東京ヴェルディに負ければ降格だったが、こちらは何とか勝利してJ1に残留。


なお、逆転された際には、オーロラビジョンにはゴールシーンのリプレイが流されるが、そのシーンでは直後に悔しがる彼の姿も同時に流され、会場は大爆笑が起こった。元いた選手をイジられることとなったが、まあ川崎がスポーツクラブ屈指のノリやネタ重視のエンターテインメントクラブであり彼自身も在籍時にそれに乗っていたので仕方あるまい。


翌年もジュビロでプレーしたが得点を挙げられずに残留争いに巻き込まれる。33節では風間監督を解任した後のグランパスとの残留争い直接対決にて決勝点をあげるも、時すでに遅し。他会場の結果でチームは降格し、自身も退団することとなった。


その後、2020年には東京ヴェルディでプレーしたが、コロナウイルスの感染拡大などもあってか出場機会を減らし、PKを外すなどチームには全くと言っていいほど貢献できず、自身初の無得点シーズンとなった。


2021年にセレッソ大阪へ復帰。磐田・ヴェルディ時代が絶不調だったこと、さらにはセレッソが育成型へ舵を切っていたこともあって、当初は不安視・疑問視されていたが、開幕戦でチームのシーズン第1号弾を決め、プレーに輝きを取り戻し主力として活躍。川崎への恩返し弾2発を含む開幕5試合で5得点を記録する。その後はチーム状況や本人のケガの影響であまり点を取れなくなってしまったが、これまでの絶不調を考えると見事すぎる復調であった。セレッソからは契約更新が打診されるが、同年限りで現役を引退。引退会見では、これまでの審判の皆様へは迷惑をかけました謝罪した。


引退後は本人の希望もあり中澤佑二のように元アスリートタレントとしてバラエティやサッカー関連の番組に多く出演中。



その他編集

高校時代の同級生と結婚しており、現在は4人の息子を持つ良きパパ。息子4人にはそれぞれ碧、緑、橙、紫と名前に色が入っている。


長男は引退セレモニーのときに誰よりも泣いていた。

次男は大阪へ単身赴任から連絡無しに父が一時帰宅した際に驚きと嬉しさを隠しきれていなかった。

三男は父の大阪への単身赴任が決定した際に父について行き、大阪で男2人暮らしをした。家族全員単身赴任当日までにやっぱやめると言うと思っていたらしいが、彼の決意は固かった。

四男はまだ幼いからか、引退セレモニーのときははしゃいでいた。


輝かしい経歴の持ち主だが、イエローカードを最も多く、レッドカードも歴代2番目に多く貰った選手でもある。少しのことで他の選手と衝突することが多かった。また、ピッチ内では気性が荒いことで有名だが、それ以外の場所では控えめな性格。


意外とクラブの降格も他の選手よりも多く経験しており、個人成績に反してクラブとしての優勝を経験することなく、国内無冠に終わっている。


2020年にも引退を考えていたが、盟友である中村憲剛から引退するとの電話があり、そのときに自身も引退しようかと思っていると伝えると、「何言ってるんだよ!まだできるだろ!続けろよ!」といったようなことを言われて現役続行決定したと自著にて述べていた。

翌年、再び引退の報告をすると、中村からは「お疲れ様」といった労いの言葉を貰ったそう。


FC東京移籍は誰にも相談せずに勝手に決めて奥さんに怒られた。奥さんは憲剛にもやめるように取り合ったらしいが、東京移籍してしまった。


東京では自身のプレー案をメンバーに提案するも、「それは東京のスタイルに合わない」と一蹴されたとか。おそらく彼が東京で得点数が減ったのはこういった東京の確立していないスタイルに固執した選手が多かったこと、さらには上記の憲剛のようなパサーがいなかったことも影響しているのかもしれない。事実、全盛期にも中村がいなかった代表では結果を残せていない。


現役ラストのリーグ戦となったアウェイ清水エスパルス戦ではCKからオウンゴールを誘発させて先制に成功。オウンゴールという形になったため、本人曰く、「記録を付ける人が空気を読んでくれたら良かったですが(笑)」とのこと。試合は逆転負けを喫したが、リーグ最終戦を得点に絡んで締めることができた。もしこれが彼の得点となっていたら、同期加入の加藤陸次樹と並んでセレッソ内得点王であった。


何度も書いてきたが、中村憲剛は大久保嘉人のキャリアを語る上で外せない存在であり、大久保自身も共にプレーした選手の中で最高の選手と言及している。その影響は大きく、W杯やFC東京移籍時にも「憲剛がいないとダメ」と言われるほど憲剛の存在は大きかった。

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